【連載】チコちゃんに叱られる! 「ブービー賞があるのは日本人が優しすぎたから」といういい加減な解説
昨日に続いて、5月10日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
- 「◯は良い」「×は悪い」「△はどちらでもない」なのはなぜ?
- ブービー賞があるのはなぜ?
- 年をとると老化するのはなぜ?
- 【視聴者の皆さんからのおたより】新しい靴を午前中に履く理由。
という4つの話題のうち、2.について考察する。
「ブービー賞があるのはなぜ?」については放送では「日本人が優しすぎたから」が正解であると説明された。
ゴルフを研究している北徹朗さん(武蔵野美術大学、日本ゴルフ学会)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
- ビリから2番目の人を表彰するという『ブービー賞』は日本だけ。海外ではジョークでビリの人を表彰する場合があるが、賞品は些細な物。
- 日本にブービー賞が伝わった時も最初は些細な賞品であったが、「ビリの人にも優しくするという日本人の優しすぎる性格が今のブービー賞をつくり上げた。
- ゴルフのコンペでブービー賞を狙ってわざとミスしてビリになろうとする人が現れ、プレイが盛り上がらなかったり試合が長引くといった弊害が出てきた。そこで、いつから誰が始めたのかは分からないが、「ビリから2番目の人」にあげるようになった。
- つまり、日本人が優しすぎてビリの商品が豪華になったせいで、狙いにくい「ビリから2番目の人」の人に商品をあげるようになった。
- そんなことで気をつかっちゃうのがこれまた日本人っぽい。
解説の時間が短すぎたこともあり、放送では「ゴルフの大会で優勝するとジャケットを着るのはなぜ?」という話題が追加された。起源は、「マスターズ・トーナメントの創始者・ボビー・ジョーンズ選手が赤いジャケットに憧れていたから。」と説明された。なおジョーンズ選手は1930年に世界四大大会をすべて制覇【←『グランドスラム』という呼称の始まり】、その年に引退、その後1932年に『オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ』を設立し、1934年に『マスターズ・トーナメント』を開催した。このクラブの会員の証しとして緑のジャケットが作られた。マスターズ・トーナメントの緑のジャケットを自由に着られるのは翌年の優勝者が決まるまでの1年間だけとなっているという。
ここからは私の感想・考察になるが、ブービー賞についての以上の放送内容は「解説」としての意味をなしていないように思う。
- 「日本人が優しすぎた」というが、多民族に比べて日本人が優しいということを示す根拠は全く無い。
- 「最下位の人に与える賞品が豪華になった」という理由が優しさにあったという根拠も無い。
- ブービー賞の基準や賞品の中身を決めたのは一部の当事者であって、それをステレオタイプ化された「日本人の性格」にこじつけるのは飛躍しすぎている。
では、どのように語ればより説明らしくなるのか、ということであるが、これはけっきょく「どのような授賞制度をすれば、より大会が盛り上がるのか?」というテクノロジーの問題に帰着する【←「優しい」かどうかは関係ない】。
- まず、最下位の人を表彰するという元祖ブービー賞の意義。上位者だけを表彰しているだけでは受賞者が固定されてしまい、一般の参加者はいくら努力しても授賞対象になれないという不満が出てくる。これをを解消するためには、参加者誰でも受賞の可能性があるような制度を作る必要があり、ブービー賞は有意義であると思われる。
- ブービー賞の賞品を豪華にするかどうかは、どれだけ大会が盛り上がるか(参加者を増やしたり、リピーターを増やしたりできるか)を検証した上で任意に設定できる。これまた「優しさ」とは関係が無い。
- 上記にもあるように、「ブービー賞=最下位表彰」では、ブービー賞を狙ってわざとミスしてビリになろうとする人が現れ、プレイが盛り上がらなかったり試合が長引くといった弊害が出る恐れがある。これを避けるには、賞品を些細な物に戻すか、あるいは今回取り上げられたように、最下位から2番目に与えるといった対策が考えられる。
- なお、ウィキペディアでも紹介されているように、優勝争いにもブービー争いにも加われない中位の競技者の目標として、5位や10位など切りの良い順位に賞を与えること(飛び賞)も広く行われているという。
要するに、スポーツなどの大会では、トップクラスの選手だけで上位が独占される可能性がある。こうした場合、中位や下位の参加者に努力目標を与えるという目的で『飛び賞』制度は有用と思われる。「最下位から2番目」というブービー賞もその1つであり、最下位に落ち込んだ初心者が、とりあえず最下位を脱出するという目標を持ち、その達成を讃えるという点で効果があるように思う。
なお、以上は「日本人の優しさ」自体を否定するものではない。「日本人すべてが優しい」というような画一的で自賛的なステレオタイプ化された「日本人論」は容認できないが、街角でみかける、思いやり、譲り合い、災害避難所での助け合い、行列を守るといった行為はそのつど称賛し、いっそう定着させていくべきであるとは思っている。
とはいえ、「日本に○○という習慣があるのはなぜか?」という疑問に対して何でもかんでも「日本人は優しいから」とこじつけて「説明」することは避けるべきだ。そのようなこじつけでは、万が一、その「○○という習慣」が機能しなくなった時にどうすれば改善できるのかを示すことができない。そういう事態で「優しい心を持ちましょう」といくら叫んだところで、おそらく何も変えることはできまい。
次回に続く。
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