【連載】NHK『ダークサイドミステリー 神秘の古代ミステリー 徹底検証!日本・ユダヤ同祖論(6)McLeod『Epitome of the Ancient history of Japan』(マクレオド『日本古代史の縮図』)
1月16日に続いて、2024年11月29日に再放送された表記の放送についてのメモと感想【初回放送は2023年7月13日】。
放送では続いて、日ユ同祖論がいつ頃誰によって提唱されたのか紹介された。その歴史は浅く、明治時代初期以降のことであるという。
まず紹介されたのは、N.McLeodによる『Epitome of the Ancient History of Japan』(ノーマン・マクレオド『日本古代史の縮図』、1875年)であり、
●日本には異なった3つの民族が住んでいる。そのひとつが神武天皇の家系にあたるユダヤの人々だ。
という記述があるという。
マクレオドは明治元年に来日し、初めて見た日本の文化・風習に驚き、「ユダヤと似ている」と書き記している。例えば、
●結婚は夜に行われる。お金持ちの花嫁は白い衣装、顔には白いベール。これはユダヤの儀式とほとんど変わらない。
もっともその中には、
●日本人のちょんまげはユニコーンの角を表しており古代イスラエルの兵士が髪を結び兜についたユニコーンの角の中に入れていたのと似ている。
といった奇妙な説も含まれている。偽史研究家・文筆家の長山靖雄さんは、この本について次のようにコメントしておられた。
●相当間違いというか、大胆な(歴史と文化の)圧縮があって、全然 日本人が納得しない説明。だから外国人向けのパンフレットとしてある種「おもしろく」、「興味をひく」ように作ったという印象は拭えない。
この本の一部はリンク先から閲覧できるので、冒頭の部分をもう少し詳しく読んでみることにした【英文テキストの読み取りはGoogleレンズ、翻訳はDeepLによる。長谷川による補足・修正あり】
THE Empire of Japan is peopled by three distinct races, viz:- The AINO (Aa. Inu) race, the aborigines of the North, A LITTLE RACE, the aborigines of the South, And the JEWISH RACE, the descendants of the Princes, Samurai, and people of Jin Mu Tenno, each race having brought with them separate belongings, which indicate their origin.
日本帝国は3つの民族から構成される。すなわち、北の原住民であるアイノ族【アイヌ族】、南の原住民であるリトル族【琉球?】、そして王子、武士、神武天皇の子孫であるユダヤ族である。
Besides these, there are a few COREANS, part of them, the descendants of Tyco Sama's captives, and the remainder many of the Yetas or Tanners 【←分からない】of Japan. The descendants of a Negro race may also be seen in different parts of the country; but they are very few in number; likewise to prevent any future misunderstanding, it will be necessary for me thus early to make mention of what might be fairly termed a MIXED RACE, viz: the descendants of the Aa. Inu race, the TOKUGAWA SAMURAI, who intermarried with the daughters of Jin Mu Tenno's, or the Jewish race.
これらに加えて、タイコ・サマ【太閤秀吉?】の捕虜の子孫であるコリア人が数人おり、残りは日本のイエタ族やタンナー族である【←分からない】。黒人の子孫もこの国のさまざまな場所で見かけるが、その数は非常に少ない。つまり、混血種族と呼ぶにふさわしいもの、すなわち、アイヌ民族の末裔であり、ジン・ムー・テンノーの娘たち、つまりユダヤ民族と結婚したトクガワ・サムライについてである。
This occurred when Iyeyasu or Gon- gen Sama the founder of the Tokugawa Dynasty of Shoguns (or Tycoons) had completely overpowered the descendants of Jin Mu Tenno, or the Jewish race; he and his successors then built castles all along different parts of the Tokaido, or main public road of Japan; and like- wise built other castles nearly everywhere, intersecting the territories of the Jewish or Jin Mu Tenno's Princes. descendants; and to these castles, which he built, he added the surrounding lands which he had previously wrested from the Princes of the Jewish race, and these castles and lands he gave to relatives of his own, as well as to all his adherents who had helped him to conquer the Jewish race.
徳川王朝の創始者である家康(あるいは権現様)が、ユダヤ人である神武天皇の子孫を完全に制圧したときのことである。家康とその後継者たちは、東海道のあちこちに城を築き、ユダヤ人や神武天皇の王子たちの領土と交差するように、ほぼいたるところに城を築いた。これらの城と土地は、自分の親族や、ユダヤ人征服に協力したすべての信者に与えた。
And of these relatives and adherents of his, he made Daimios of his own creation, who are termed FUDAI by which name they can easily be distin- guished from the Princes of the Jewish race, see Bukan, or Book containing the genealogy of the Imperial family, Kuges, and all the Princes of Japan. It is likewise said that the Tokugawa caused all the large war vessels of the other race to be destroyed, so that they could not come to Yedo by sea. The Tokugawa dynasty of Shoguns thus converted the Empire of Japan into one vast prison for the Jewish race, of which they held the keys, (the castles they built) and compelled the Princes of that race to send those nearest and dearest to them to remain as hostages in Yedo, the capital of the Shoguns, for their due submission and yearly payment of tribute or presents to the Shogun, as an acknowledgement of his sovereignty over them; and any attempt to free the Emperor, their rightful ruler, from his palace prison in Kiyoto might have been the death signal to the hostages, their nearest relatives, whom they only were permitted to see once a year.
また、これらの親族や信奉者のうち、【独自に作られた】大ミオス【大名】を自作【任命】した。彼らは「フダイ【譜代】」と呼ばれ、ユダヤ民族の王子たちと容易に区別できる。同様に、徳川は他民族の大型軍船をすべて破壊させ、彼らが海路で江戸に来れないようにしたと言われている。こうして徳川将軍家は、大日本帝国をユダヤ民族のための広大な牢獄に変え、その鍵(自分たちが建てた城)を握り、ユダヤ民族の王子たち【大名の家族】に、将軍家の首都である江戸に人質として残るよう強制した; 正統な統治者である天皇を清都【京都】の牢獄から解放しようとする試みは、年に一度しか会うことが許されない最も近しい身内である人質たちにとって、死の合図となりかねなかった【背けば死罪になりかねなかった】。
A Miya or Imperial Prince was always kept in Uyeno, Yedo, by the Tokugawa, for the purpose of being raised to the Imperial dignity, in case the Emperor should have made good his escape from his imperial prison in Kiyoto. During the year 1862 the hostages having been permitted to return to their homes, there was then no obstacle to break the iron yoke of the Tokugawa, and the battle of Fushimi restored the Emperor to power, and for ever abolished the government of the Tycoon or Shogun.
天皇が清都【京都】の牢獄から脱出した場合に備えて、徳川は常に宮(皇太子)を上野に置いていた。文久2年(1862年)、人質たちは故郷に戻ることを許され、徳川の鉄のくびきを断ち切る障害はなくなった。 そして伏見の戦いは、天皇を権力の座に復帰させ、タイクーンや将軍の政治を永久に廃絶させた。
DeepLの翻訳には多少意味不明な部分があるが、もとの英語自体それほど難解でもないので、翻訳に頼らなくても面白く読み進めることができそうだ。
マクレオドがなぜ明治初期の日本をこのように捉えたのか、大名と朝廷に関していくつか誤解をしてしまったのかはよく分からないが、単に「おもしろく」、「興味をひく」ために事実を曲げたり誇張したというだけではないようにも思う。具体的な書物は思い浮かばないが、おそらく、同時期に
日本人が書いた外国紹介の書物の中でも同程度の誇張があったのではないかと思う。
次回に続く。
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