【小さな話題】宮沢賢治『春と修羅』をAIに書き換えてもらう(2)仏教バージョン、キリスト教バージョン、行動分析学バージョンなど
昨日の続き。宮沢賢治『春と修羅』の『序』の冒頭部分:
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
をAI【ChatGPT】に書き換えてもらうという企画。
なお昨日の最後のところにも述べたように、賢治は一言一句、言葉を慎重に選んで詩を創作しており、そういった芸術作品を勝手に書き換えてしまってよいものだろうかという後ろめたさもある。とはいえ、さまざまな書き換えを行うことで芸術作品やその背後にある思想を多角的に捉えるというメリットは捨てがたいように思う。
ということで、まずは賢治自身が熱心な法華経(日蓮宗系)信仰をもっていたことをふまえて、原文を日蓮宗の信者に向けに書き換えてもらった。
わたくしという存在は
南無妙法蓮華経の功徳によってあらわれた
一瞬のいのちのはたらきにすぎません。
(南無妙法蓮華経)
過去世からの因縁と
諸仏・衆生とのつながりのあらわれであり、
御題目のひかりに照らされて、
人びとや大自然とともに
たえず生じ、たえず滅しながらも
まちがいなく続いております。
(南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経)
肉身はやがて失われても、
妙法のひかりは永遠に保たれ、
衆生の中に受け継がれてまいります。
(南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経)
私自身は信者ではないので上掲の書き換えが日蓮宗の教義に即したものになっているかどうかは判断できないが、雰囲気的には仏教的な印象を受ける。
続いてキリスト教バージョンを創ってもらった。
わたしという存在は、主が造られた多くの命のひとつに灯された、小さな青い光です。
(見えない霊の働きが重なり合って、この光は保たれています)
わたしは風景や人々と共に、ときに揺れ、ときに輝きながらも、確かに燃え続けています。
「光はやみに輝いている。やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書1章5節)
この小さな灯火はやがて消えるとしても、主から与えられた光は決して失われません。
なぜなら、「わたしは世の光である」(ヨハネによる福音書8章12節)と主イエスが宣言されたように、永遠の光がわたしたちを導き続けるからです。
キリスト教における神とわたしとの関係を考えると、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」という冒頭の文はキリスト教的には書き換えられないのではないかと思ったが、上掲では「わたしという存在は、主が造られた多くの命のひとつに灯された、小さな青い光です。」というような書き換えて矛盾を回避していた。
最後に、行動分析学的に書き換えてもらった。
おもしろいリクエストですね!
宮沢賢治の詩を「行動分析学(ABA:Applied Behavior Analysis)」の枠組みで置き換えると、「自分は固定的な実体ではなく、環境との相互作用として観察できる行動の一部である」というふうに表現できます。
◆### 行動分析学的な書き換え(試案)
わたしと呼ばれる現象は、環境刺激と学習歴との相互作用から生じた行動のひとつのパターンです
(無数の過去の強化・弱化の履歴の複合体)
周囲の状況や他者とともに、休むことなく出現と消失を繰り返しながら、 確かに持続している行動の連鎖のひとつのパターンです
(機能は継承されても、その個体はやがて消滅する)
◆### ポイント
- **「有機交流電燈」** → 「環境刺激と学習歴によって駆動される行動」
- **「青い照明」** → 「観察可能な行動のパターン」
- **「透明な幽霊の複合体」** → 「過去の強化・弱化、学習歴の積み重ね」
- **「せはしく明滅」** → 「行動が状況に応じて出現と消失を繰り返す
- **「因果交流電燈」** → 「因果律=行動と環境の相互作用」
- **「ひかりはたもち その電燈は失はれ」** → 「機能や影響は残るが、個体(オペラント行動を出す存在)は消滅する」
さらに、学生にも直感的にわかる入門風にやわらかく書き換えてもらった。
わたしという存在は、生まれつきの性質やこれまでの経験と、まわりの環境とのやりとりの中でできている「行動の現れ」です。
(これまでの経験や出会った出来事が積み重なった結果です)
まわりの人や景色といっしょに、休むことなく変化しながらも、
たしかに続いている「行動の流れ」のひとつなのです。
(行動の影響は残りますが、その行動を起こす「からだ」はいずれなくなります)
ChatGPTからはさらに、「具体的な日常例(たとえば子どもがあいさつを学ぶ場面など) にして、もっと直感的に理解できる形にすることもできる」というご提案があった。
「わたし」という存在は、まるで「子どもがあいさつを学ぶ様子」に似ています。
- 子どもは最初から「おはよう」と言えるわけではありません。
- 親や先生が「おはよう」と声をかけたり、言えたときに笑顔や褒め言葉を返すことで、その行動は少しずつ強化されます。
- そうして子どもの「あいさつ」という行動は、環境(まわりの人や出来事)とのやりとりの中で形をつくっていきます。
- あいさつは毎回同じではなく、場面や相手に応じて少しずつ変わりながら繰り返されます。
- その行動は子どもが成長しても周囲に影響を残します。たとえば「明るくあいさつする子だな」という印象や、他の子に広がる習慣など。
- けれども、その行動を起こしていた子どもの体(個体)はいつかいなくなります。
- しかし「あいさつする」という行動パターンや影響は、他の人や社会の中に残り続けます。
◆### わかりやすくまとめると
賢治のいう「青い照明」は、子どもが「おはよう」と言うその一瞬の行動のようなものです。
- 行動は環境とのやりとりで生まれ、
- 周囲とともに変化し続け、
- * 個体がいなくなっても影響は残っていく。
これが「わたしという現象は行動の連なりにすぎない」という賢治の詩を、行動分析学で日常的に理解した姿といえます。
最後に、大人の日常(仕事や人間関係) を例にして、宮沢賢治の詩を行動分析学風に置き換えてもらった。
◆### 日常例(仕事や人間関係)
「わたし」という存在は、会社での仕事や人とのやりとりの中で見える行動のパターンと考えてみましょう。
- たとえば、上司に「おつかれさまです」と声をかける。
- それに対して「ありがとう、助かったよ」と返ってきたり、笑顔をもらうと、その行動は強化されて次も起きやすくなります。
- 一方で、返事がそっけなかったり、無視されたりすると、その行動は弱まりやすい。
- こうして私たちのふるまいは、仕事場という「環境」との相互作用の中で形を変えながら続いていきます。
また、
- 自分の一つ一つの行動は、同僚や後輩にも影響します。
たとえば「この人はちゃんと声をかけてくれる」と思われれば、その人たちも声をかけやすくなり、職場全体の雰囲気が少しずつ変わっていきます。 - しかし、時間が経てば自分は職場を去ったり、やがて体もなくなってしまいます。
- けれども、自分の行動の影響――周囲に伝わった習慣や記憶や関係性――は残り続けます。
◆### 宮沢賢治の詩とつなげると
- 「青い照明」= そのときその場で観察できる自分の行動(例:声をかける、手伝う、笑顔を見せる)。
*
- 「せはしく明滅」= 職場や人間関係の中で、状況に応じて行動が出たり消えたりする。
- 「光はたもち 電燈は失はれ」= 行動の影響(周囲に残った効果)は続くが、その行動を生み出していた本人(体や立場)はいつかなくなる。
◆### まとめ
大人の日常に引きつけると、
**「わたし」というのは、仕事や人間関係の中で環境に応じて現れる行動の流れにすぎない。
行動は変化し続け、本人はやがていなくなっても、その行動が残した影響は周囲に生き続ける。**
ということになります。
以上、「仏教バージョン」、「キリスト教バージョン」、「行動分析学バージョン」、「行動分析学入門バージョン」、「子ども向け日常生活バージョン」、「大人向け日常生活バージョン」に書き換えてもらった。さすが最近のAIはスゴい。ここまで多角的に捉えるのは生身の人間、少なくとも私には到底できない。
「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」という考え方は、行動分析学の発展型の1つである関係フレーム理論の自己観と共通しているように思われる。但し、私自身は『春と修羅』の全編を読んでいないので、全体として何を描こうとしていたのかについては何とも言えない。
ネットで検索したところ、Yahoo!のAIアシスタントでは「哲学的な世界観の探求」に関して以下のように解説されていた。
賢治は「春と修羅・序」において、ラディカルで野心的な哲学的な問題意識を、ユーモラスで示唆に富んだ詩の形で表現しました。特に「すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから」という一節は、「インドラの網」やライプニッツのモナド論に通じる、世界を構成する要素の相互依存関係と、個の中に全体が映し出されるという壮大な哲学的な視点を描いています。彼は自身を「心象観察官」と任じ、経験する様々な事象を「心の現象」として観察し記録しようとしました。
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