じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
ネモフィラ。北九州市若松区のグリーンパークにて撮影したもの。オレンジ色の花は花菱草。 |
【思ったこと】
990505(水)[社会]「公共性」をめぐる対立軸 昨日の日記で、 個人的な希望としては、社説や論評など一切無しで、公正な報道だけに徹した新聞があれば十分と書いたが、これは決して、事実だけをダイレクトに伝えろと言うことではない。ちゃんと書いておいたように なるべく多様な物の見方、価値観を公正に紹介してもらいたいというのがいちばんの希望であった。岡山に戻って新聞受けに溜まっていた朝日新聞をパラパラとめくってみたところ、5月3日の社説にそれに一致するような記述があった。昨日の日記の趣旨から言えば、社説としてではなく一個人の一主張として紹介してもらいたいところであったが、多様な価値観を認めるかどうかという点では的確な指摘であるように思った。 それは、“日本社会の停滞感が強まる中で、「公共性」という言葉を手がかりに、将来像を描こうという試み”の中に見られる対立軸の指摘である。
私が未だによく分からないのは、少なくとも日本国内においては、経済面で自由主義を強調する人々がなぜか前者を志向する傾向にあるということ。生物界の進化の様子を見ても分かることだが、本来、競争原理というのは、異質で多様な価値観が競い合い、時には発展的に衝突を解消することによって質的な進歩をとげる可能性のある場面においてのみ有効に機能する。同質な価値観が支配する単色の世界の中での競争は、単に勝者と敗者、強者と弱者を生み出すだけで、結局は勝者が自分の権益を保持するための「弱者に文句を言わせない道具」にしかならないように思える。 ここで『新明解』で「自由」や「自由主義」の項を引いてみると と定義されていることがわかる。ところが少なくとも戦後の日本では、真のリベラリズムは、党名に「自由」を冠する政党と一致する形では発展してこなかったように思える。政治や歴史のことは全くの素人でよく分からないが、おそらく、社会主義勢力に対抗する形で、自由主義と保守主義が一体化して政治を支えようとしてきたためであろうかと思う。別の見方をすれば、真のリベラリズムはたまたま野党勢力であった社会主義政党(もしくは社会民主主義政党)と手を組む機会が多くなり、このことから、例えば国旗や国歌の強制に反対することが共産主義勢力の主張であるかのように見なされるようになってしまった。少なくとも既存の社会主義国家においては、国旗や国歌の強制に反対する主張が許容されることなどあり得ないはずなのだが...。このほか、平和運動や「革新」についても、奇妙なネジレがあるように思うのだが今回はふれないことにする。 上掲の対立軸の設定は、けっきょくのところは、保守主義と自由主義の本質的な違いをあらわにし、ネジレ現象の解消をめざしているようにも思える。 ちなみに行動分析学は、上掲いずれの立場にとっても有用な技法を提供するものだ。それゆえまかり間違えば独裁国家の政治支配の道具にもなるし、逆にそういう独裁化を防ぐための啓蒙思想にもなりうる。もちろん、新たな公共性の「創造」のために有用な提言を行うこともできるもので、じっさい、スキナーの『科学と人間行動』にも、マロットらの『行動分析学入門』の中にも、さまざまな有益な提言がすでに記されている。いずれ機会を改めて論じることにしたい。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【5LDKKG作業】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
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