じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 990715(木)[生活]夏を感じる風景 雨模様の東日本や北日本と違って、岡山はこのところずっと晴れの暑い毎日が続いている。7/15の最高気温は32.1度まで上がった。週間予報によれば来週の日曜〜月曜前後に降水確率が高くなりその後は不安定ながら晴れが主体の毎日になるという。梅雨明け宣言も間近といったところだろう。 左上の写真は「のびたねこ」。大学構内の自転車置き場で単に昼寝しているだけなのだが、30度を超す暑さの中で体温を最大効率で発散させようとしているのか、体を伸ばしきって寝ていた。 左下の写真は夕刻、西の空に輝く月と金星。金星のほうはこの日の午前4時に最大光度を迎えたところ。宵の明星としては今年はこれ以上の明るさは無い(明けの明星としては9/10、マイナス4.6等に達する)。いっぽう月のほうは月齢2.3。夏至に近いので北西側に偏っているのが分かる。この月が満月となり、次に新月を迎えた時こそが、いよいよ今世紀最後の皆既日食となるのだ。 右下の写真は、昨年9/6に閉園した京山ロープウェイ公園。7/20から別の会社によって新しい遊園地として再オープンするのだという。準備のためだろうか、夜は時たま写真のように青白くライトアップする(撮影は7/14夜)。デジカメで撮ると天空に浮かぶ巨大宇宙船のようにも見える。 ところで、岡山大学では今年度から夏休みは8、9月と決められた。昨年までは7月中旬になると学生もガタっと減るところだが、今年は今のところまったくの平日。私の担当授業も来週まで続く。夏休みと言っても授業が休みになるだけのことであって、仕事上は特にヒマができるわけではない。むしろ8月は、前期試験やリポートの採点に追われてのんびりできず、9月に入れば学会やら会議やらが次々と開かれる。別にのんびりしたいとは思わないけれど、どのあたりで時間にゆとりができるのか計りかねているところだ。 |
【思ったこと(2)】 990715(木)[心理]ルール支配行動から生きがいを考える(3)努力をもたらすもの 先日、AO入試に関連して7月9日の日記でとりあげた「何であれ努力を求める入試こそ必要」に対しては、ちはるさんやがくもん日記さん(7/13)が反応していただいたのに、小豆島合宿出発の直前であったために十分にフォローすることができなかった。このシリーズの本題からは少々外れるが、あの時に取り上げた「努力」について考えをまとめてみようと思う。 初めに「努力」の辞書的な意味として『新明解国語辞典 第五版(三省堂)を引用すると 努力:ある目的を達成するために、途中で休んだり 怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすることとなる。そこで、この定義をたたき台に「努力」について考えてみることにする。 まず「ある目的を達成するために」の部分だが、このうち、どういう目的が望ましいかという議論はおそらく心理学の研究の範囲を超えるテーマになるかと思う。心理学として扱えるのは
「目的を達成するために〜すること」というのは、行動の直後に結果が生じる随伴性では維持されにくい。これはまさにルール支配行動であると言える。「途中で休んだり 怠けたりせず、..」というのは「あの人は努力家だ」とか「あの人は根性がある」という形で形容されるように、本人の性格もしくは一般的な能力であるかのように思われがちであるが、実は、ルール自体の守りやすさ守りにくさにも大きく依存している。そういう意味では「自分の努力が外的にコントロールされていると考える」のはむしろ正しいとも言える。 タイトルに書いた「努力をもたらすもの」とは、「努力する」という行為を強化するような環境をどのように作り上げるかということだ。これは基本的には、「目標に向かって持てる能力のすべてを傾けてする」という準備行動自体に、いかにして結果を随伴させるかという問題に帰着させる。『行動分析学入門』(杉山ほか、1998年、産業図書)では 1回の行動に随伴する結果が 適切な大きさで確実であれば 結果の遅れに関係なく それをタクトとしたルールは従いやすいと記されている。裏を返せば、随伴する結果が小さすぎて累積的にしか意味がない場合や、随伴する確率が小さすぎる場合には、努力しにくいということになる。努力できる人々は、決して「根性のある人」や精神修養のできた人とは限らない。むしろ、一般には従いにくいルールに対して、自分自身で上手に結果を付加できるノウハウを身につけた人であると考えることもできる。 「努力をもたらすもの」を考えるためには、このほか、「行動に随伴する結果」についての数量的な関係が大きな意味を持っている。つまり、その随伴性が「行動すればするほど、それに応じて、より多くの結果が伴う」ような特徴を持っているのか、それとも「行動することによって結果が生じるのは確かだが、結果の大きさは行動の量には必ずしも依存しない」という特徴をもっているかによって、大きく変わってくる。これらは行動分析学で扱う「強化スケジュール」の問題に関連している。 例えば、お盆の帰省の際に特急列車に乗る場面を考えてみればよい。自由席券を持っている人は、少しでも早くホームに到着して行列の前のほうに並ぼうとするだろう。これは、「どれだけ早く並ぶか」ということによって結果が変わってくるためである。いっぽう、指定席券を持っている人は、発車前に並ぶ行動をとること自体は変わらないが、行列のどこに位置しているかには関心を持たない。どこに並ぼうと結果が変わらないからである。 高校までの教育と大学入試との関係も同様。勉強であれスポーツであれボランティア活動であれ、とにかく、「行動すればするほど、それに応じて、より多くの結果が伴う」のような随伴性が用意されていなければ努力は生じない。そういう意味では、抽選によって入学者を決める方式は努力を否定する随伴性であると言えるし、いわゆる受験勉強は、いろいろ弊害があるにせよ、努力を肯定する随伴性であると言える。学力検査だけで選別する現行の入試制度を改善するのは大いに結構であるが、努力を無駄にするような選抜方法はいけない。7月9日の日記で スポーツ一般はもとより、歌や演奏、パソコン技術、さらには将棋、囲碁、チェス、オセロ、TVゲームでも構わないし、自転車による日本一周体験でもよい。アニメについてのクイズ王でも、料理選手権でもよい..と述べたのは、要するに努力を評価する基準を学力一本ではなくてもっと多様化してもよいのではないかという意味であった。時間が無くなってきたので、がくもん日記さん(7/13)が提案しておられた「責任」については、機会を改めて論じることにしたいと思う。 |
【ちょっと思ったこと】
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【生活記録】
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【今日の畑仕事】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
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