じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 洋梨。農学部農場の洋梨の実が膨らんできた。子どもの頃、糞ころがしが洋梨型の玉を作るという話を『昆虫記』で読んだ。しかしこの時には洋梨は高級品で一度もお目にかかったことがなかった。それ以来ずっと、「洋梨」→「糞ころがし」という連想が働いてしまう。


7月16日(金)

【夏期特別企画:看板を考える(その1)】
[写真4]

 夏の特別企画として、大学構内や街角で見かけた面白い看板や、ちょっと考えてしまうような看板を紹介していきたいと思う。

 1回目は、大学の文法経グラウンド前に先週から取り付けられた「花火禁止」の看板。毎年この時期になると、深夜にグラウンドや、ひどいときには講義棟の屋上からロケット花火などを打ち上げるふとどき者が居て私も問題を感じていたが、これまで明確に「禁止」という看板が出たことは一度も無かったように記憶している。

 花火については、このほか、後始末をちゃんとしない者も居るし、このところの空梅雨模様の天気で枯れ草が燃え出す危険もあるので、禁止措置はやむを得ないところであろう。ただ、花火と言っても線香花火など、手で持って遊ぶ安全な花火もいろいろある。「近隣の迷惑になるので」という理由が付されているが、そういうものまで禁止してしまうと、逆に近隣の子どもたちが楽しむ場を奪ってしまうようにも見える。

 いずれにせよ大学は教育・研究のためであって花火をする場所でないという原則論から禁止するならば、「近隣の迷惑になるので」という理由は要らない。わざわざ理由をつけたのは、反発を和らげるためか、「周辺諸国の国民感情に配慮して」という趣旨と同じ意味なのか、「大学は常に近隣に配慮していま〜す」というアピールなのか、それとも「近隣に迷惑がかからない程度の小規模の花火なら黙認します」という意味なのか、今度事務長に聞いてみようかと思っている。
【思ったこと】
990716(金)[心理]ルール支配行動から生きがいを考える(4)責任とは何か

 昨日の日記の続き。相変わらず本題から脱線してしまうが、がくもんにっき。さん(7/13)が提唱された「努力より責任」のうちの「責任」について考えてみたいと思う。ただし、今回は「責任」についての一般的な考えを述べるだけにとどめる。プロセス重視か結果重視かという問題については、次回以降に改めて取り上げることにしたい。

 さて例によって『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)で「責任」を調べてみると、
責任:(1)自分の分担として、それだけはしなければならない任務。(2)不結果・失敗に基づく損失や制裁(を自分で引き受けること)。
という2つの意味が記されていることが分かる[原文の丸付き数字はカッコ付き数字に変更した]。

 このうち、(1)のほうは、特に集団で1つの作業をする時に、自分が果たすべき行動の内容とその達成基準を具体的かつ明確に定めるということである。私がしばしば引用する『行動分析学入門』(杉山ほか、1998年、産業図書、p.334)には、これにそっくりの記述があることに驚く。
目的指向システムデザイン:はじめにシステムの究極の目的を設定し
次に、究極の目的を達成するのに必要な目前の目的をいろいろのレベルで設定し
最後に、目前の目的を達成するのに必要な最初の目的を設定する
 がくもんにっき。が提唱されている「責任」というのは、この目的指向システムデザインを自立的に設計させようということにつながるかと思う。

 いっぽう(2)の「責任」について言えば、私は、この意味での「責任」というのは、それぞれの社会が、集団内での円滑な人間関係あるいは集団全体の損失を最小限にくい止めるために人工的に付加した随伴性であろうと考えている。言い換えれば、「責任」は行動の本質ではない。特定の行動が責任を伴うかどうかは、理論的あるいは実験的に証明されるものでは決してない。唯一の判断基準は「その行動に責任という随伴性を付与することが社会全体の利にかなうかどうか」であり、「責任」は実用的概念としてのみ存在していると言える。

 およそいかなる行動も何かしらの影響を与えるものである。その意味からは、この世界に存在する生物はすべて、存在しているという点において環境に対して責任をもつとも言える。とはいえ、野生の動物が自らの行動に責任を問われることはない。ライオンがどんなにかわいいシマウマの赤ちゃんを喰い殺しても、キリンが希少植物を食い尽くしても、あるいは海鳥が断崖一帯を糞だらけに汚しても、そのことで責任を問われることはない。それは、それらの「動物社会」に責任という随伴性を付与するしくみが備わってないからである。

 野生の動物の中でも群で生活するニホンザルとなると、集団の秩序を乱すような行動、例えば順位の高い個体を無視して先に餌を食べるとか、優位な家系の子どもをいじめるというような行動をとれば必ず制裁が加えられる。このあたりに(2)の意味での責任の芽生えがあると考えることもできる。

 人間社会で責任が問われる行動は、「好子随伴によって強化されるオペラント行動」に限られる。クシャミとか咳のように、刺激によって誘発されるレスポンデント行動の場合は、行動に罰的な結果を与えても統制することができないので責任を問われることもない。なお、犯罪の刑事責任については5月14日の日記5月19日の日記でふれたことがあるのでご参照いただければ幸いだ。このほか、じぶんの判断に自分で責任をとるということに関連してIsland Lifeさん(7/14)が考察されている。合わせてお読みいただきたいと思う。
【ちょっと思ったこと】
【生活記録】
【今日の畑仕事】
  • トウモロコシ2本収穫(計6本)。トマト大2個、インゲン、オクラ、ミニトマトいっぱい収穫。メロンの真ん中の株に実ができていた。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】