じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 講義棟南側にある桜の花が咲き始めた。ちょうど4/3は新入生のためのオリエンテーション。学科教務委員の私も「助」をとっての初仕事。


4月3日(月)

【思ったこと】
_00403(月)[社会]保守党、自由党、共和党

 連立政権残留を求めて野田自治相らの26人の議員グループが自由党から分裂。新党の名前は「保守党」に決まったとか。昨日の日記で、
自民党と連立を組んだ政党は強固な独立支持基盤をもつ公明党を除いていずれ弱体化する宿命を背負っている。いっそのこと「暫定新党」なんていう名前がよいかも。
などと冷やかしてみたが、まさか「保守党」になるとは思わなかった。保守党と言えば英国では長年にわたって政権を担当してきた由緒ある政党の名前。今回設立された「保守党」はどういう保守主義の理念を掲げているのだろうか。いずれにしても短期間で自民党に合流なんていうことになったら、御本家からクレームがつけられるのではなかろうか。

 そう言えば「自由党」というのも英国にある。こちらもまた伝統ある自由主義を掲げていたはずだ。

 ところで、日本で設立される新党の名前としてまずあり得ないのが「共和党」だろう。これについては、1/6の日記で、川出良枝・東京都立大助教授の見解を引用させていただいたことがあった。その一部を再掲すれば、
  • (共和主義は)伝統的な保守派からは象徴天皇制を否定しかねない思想として危険視され、リベラルな左派からはその「国家」中心主義的側面が嫌われるという、不幸な位置にある。”
  • (共和主義は)市民に「共通のものごと」の運営に積極的に参加し、公共の利益の追求に献身することを要請する思想であり....「自由」であるとは、国家権力から解放されていることではなく、自分で自分を統治できることを意味する。国家とは市民が「共通のものごと」に関与することのできる特権的な場にほかならない。 この意味での「自由」は“国家を必要悪とみなす近代自由主義の国家観とは鋭く対立する。
  • 「公」のために「私」を犠牲にすることが、倫理的に価値の高いものであるとの思い込みは、共和主義とは無縁である。自由な政治参加を支えるのは、各人が国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在であるという社会条件である。国なくして個人なし、誰(何)のおかげで君たちは繁栄と安全を享受できると思っているのか、といったたぐいのレトリックは、共和主義の精神を転倒されたものである。
上に引用したのは、「体制論としての共和主義とは位相を異にする共和主義の理念」ということであり、象徴天皇制の日本でも実現可能な内容を含んでいるが、これを理念とする政党は今のところ日本にはないようだ。

 これまでの日本の政治思想は、もっぱら「保守vs革新」あるいは「右翼vs左翼」といった対立軸の中で語られてきたけれど、冷戦が終結した今、「自由民主」、「自由」、「保守」といった名前を冠する政党は、国民に分かりやすい形で、「自由主義」、「保守主義」、あるいは日本型の「共和主義」の理念について語る責務があると思う。理念無き新党設立あるいは合流は、国民の政治不信を助長する。少し脱線するが2/14の日記で、和田秀樹氏の著作から
 シゾフレ人間にとっての首尾一貫とは、今の周囲の世界に合わせることであり、メランコ人間にとっての首尾一貫は、自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせることなのだ。メランコ人間にとっては、それまでとってきた態度を平気で変えて、周りの要っていることに何でも合わせるシゾフレ人間の言動が非常にチャランポランに見えるだろうが、シゾフレ人間にとっては、それで首尾一貫しているわけである。
という引用をしたことがあった。新党設立がシゾフレ型の行動にあたるのか、メランコ型の行動にあたるのか、興味深いことである。
【ちょっと思ったこと】
  • 英語第二公用語化論その後

     4/4の朝日新聞オピニオン欄に「21世紀日本の構想」懇談会座長の河合隼雄氏が登場。「英語公用語化論」については3/21の日記で桂敬一・東京情報大学教授ほか批判的なご意見を引用したことがあったが、これまで座長の河合氏の直々の御主張にふれる機会が無かった。河合氏の御主張の中で納得できる点は
    • (公文書類の副文に英語を添えることで)翻訳不可能なあいまいなお役所用語は排除され、的確で分かりやすい日本語にもなるだろう。
    • 英語を第二公用語にする程度のことでダメになるような日本語、日本文化なら、早うそうなったらええんや。
    なお、この連載は明日以降も続くということだ。

【今日の畑仕事】

多忙につき何もできず。
【スクラップブック】