じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 鉄砲百合。種類は不明だが、花粉を食べているバッタが居た。




7月19日(水)

【思ったこと】
_00719(水)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(12)「人間性」重視の入試は人間性の選別と否定につながる?

 大阪大学は7/19、来年度の入学者選抜要項を発表した。このうち医学部医学科の入試では、面接が合否判定で重要視されることが初めて明記された。

 該当しているのは医学科の後期日程(定員10人)であり、こちらの要項によれば、
面接(面接は人間性と創造性の豊かな医師及び医学研究者となるにふさわしい適性をみるために行い、一般的態度、思考の柔軟性、発言内容の論理性等を評価し、合否判定の資料として重要視する。)
となっており、従来から要項に記されていた(同じページの最下部にあり)
医学部後期日程においては、面接の内容も加味して判定を行う。
の「加味して」表現に「重要視」という文言を加えて、面接によって不合格になる可能性があることを明示した内容になっている。

 今回の文言の追加は入試の選考方法を改訂したものではない。7/20の朝日新聞記事によれば、同大では来年度から、要望のある受験生には入試の成績を開示することを検討しており、それに伴って面接の結果が合否に反映されることを明記する必要に迫られたためであったようだ。

 さてこの「人間性重視」だが、7/20の朝日新聞では
医療への信頼を失わせる事件が多発するなか、医師の適性として人間性を重視する姿勢を改めて示した。
というように、好意的に紹介されているようだが、本当のところはどうなのだろうか。すでに、こちらの連載で何度か指摘しているように、これには次のような問題がある。

 まず第一に、短時間の面接の中で、「人間性と創造性の豊かな医師及び医学研究者となるにふさわしい適性をみることが本当にできるのかという大問題がある。要項では、「一般的態度、思考の柔軟性、発言内容の論理性等を評価」というように、目的を達成するための評価方法が明記されているが、果たして、その「評価」は目的を達成するための妥当で信頼性のある方法になりうるのだろうか。

 こうした面接は、ヘタをすれば縁故入学の温床となりかねない。さらに問題となるのは、
  1. 「良い子」を演じることのできる、仮面をかぶった受験生ばかりが入ってくる恐れはないか。
  2. 「人間性豊か」ではなく、大学教員にとって「楽をして」教えやすい、つまり従順で、セクハラやアカハラ訴訟を決して起こさないようなタイプの受験生を高く評価してしまう恐れはないか。
ということだ。こちらの連載で述べたように、薬害エイズを初め、医師による保険請求の水増し、脱税、誤診隠しなどの悪事を働く医師というのは、必ずしも、学力偏差値重視の入試によって、モラルを欠いたまま入ってきた学生によって引き起こされるとは断言できない。むしろ、和田秀樹氏が指摘されているように、教授が絶対君主となっているような一部の医局の中でモラルを欠いた医師が作り出される可能性もあるのだ。

 朝日新聞記事にあった「医療への信頼を失わせる事件が多発するなか、医師の適性として人間性を重視する姿勢を改めて示した。」という説明文はいっけん聞こえがよいけれども、極端な見方をすれば、その種の適性というものが先天的に備わっているかもしくは高校までの生活環境の中で生涯不変と言えるまでに形成されており、「入学後にいくら教育を行っても、医師に適した人間性を育てることはできない」と言っているのと同じ意味になってしまう。

 仮に、臨床には不向きな学生が入り、大学教育を通じても適性を形成することができなかったとしても、基礎部門で優秀な研究業績を挙げる可能性だってあるはずだ。病院の採用あるいは開業医認定の段階で、縁故や開業資金ではなく、患者に接する医師としての応対能力や倫理意識をきっちりと審査すればそれでよいではないか。大学入試の段階で研究者として有能な学生を面接で落としてしまい、そのために癌治療の研究が10年遅れるということになったらどうするのだろうか。

 もとの話題に戻るが、今回の文言の追加は、入試成績開示に関連してとられた処置であるようだ。このことで一番問題となるのは、学科試験では優秀な成績をおさめたにも関わらず面接で不合格になった受験生がその結果をどう受け止めるかということだろう。面接で不合格になるということは極言すれば
あなたはたしかに学科では良い成績をおさめましたが、医師としての人間性や創造性には致命的な欠陥があり、大学入学後の教育によってもそれを改善することは困難です
という「人間失格」宣告を出したのと同じことになる。もちろん入試の基本は「自分の大学にふさわしい学生を入れる」ことにあるが、これは「ふさわしくない受験生がどうなろうと知ったことではない」という居直りにもつながる。個別の大学レベルではそれで良しとしても、社会全体では、不合格となった受験生の将来にも気を配る必要が出てくる。そういう意味では、私が繰り返し強調しているように、大学入試の基本は「「質をともなった努力」をどう公正に評価するか」でなければならないと思う。評価対象は、学科試験ばかりでなく、ボランティア活動における努力、TVチャンピオンで取り上げられるような各種技能であってもよいのだが、とにかく、努力で形成できない「人間性」のようなものを評価対象に含めることは困る。そういう「人間性重視」の入試が全国の大学に広まることは、高校生から努力目標を奪い、「どうせ、頑張ったって人間性の無い自分はダメだ」、「あんなものは運次第」といった投げやりな風潮をもたらす恐れがあることを警告しておきたい。

 
【ちょっと思ったこと】


【今日の畑仕事】

ミニトマト、ジャガイモ、スイートコーン、チンゲンサイを収穫。枝豆種蒔き。
【スクラップブック】