じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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『受験勉強は子どもを救う』か

2000年2月3日〜7月19日(未完)

【思ったこと】
_00203(木)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(1)メランコ型(躁うつ病型)とシゾフレ型(分裂病型)

 行動分析学会のニューズレターに「生きがい本の行動分析」というエッセイを連載している。今回は受験シーズンということもあって『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(和田秀樹、河出書房新社、1996年)を取り上げた。

 この本の著者の和田秀樹氏は、灘中・灘高から東大理IIIに入学。精神分析学を専門とし神経科の医師として活躍されておられるほか、『数学は暗記だ』など受験指南書多数、心理学関係者のあいだでは、市川伸一氏との共著『学力危機 受験と教育をめぐる徹底討論』(河出書房新社, 1999年)が話題になったこともある。私自身もこの『学力危機』を通じて本書の存在を知った。

  人生には、平坦で比較的安定した時期とは別に、困難な状況に全力で立ち向かわなければならない時期がいくつかあるものだ。いまの日本人にとって、その最初の関門が大学受験であるという人は結構多いのではないかと思う。そこで
  • 受験は本当にメンタルヘルスに悪いものなのか?
  • 若者の多くが生きがいを持てないとしたらそれは受験勉強のせいなのか? 
  • 受験がそれが善玉悪玉どっちであるにせよ通り抜けなければならない関門であるとするなら、せめてできる限り「充実した受験生活」を送るにはどうすればよいのか? 
といった疑問が出てくる。多くの受験生やその家族にとって、これらは切実な問題になっているはず。本書には決して励ましの言葉はないが、そうした疑問の解決を通じて、結果的に受験生に生きがいを与える内容を含むものとなっている。

 しかしこの本、単なる「受験生励まし本」でもないし、「受験勉強擁護論」にとどまるものではない。青年の発達や教育改革論議のなかで横行しているもろもろの固定観念に対して、「本当のところはどうなんだろう」というクリティカルな見方が満載されているように思う。和田氏の主張に賛同するにせよ反対するにせよ、そこで提起されている諸問題について自分なりに考え直してみる必要を感じ、例によって不定期更新(主として平日限定)ながら、この連載を始めてみることにした。

 さて、本書は、「受験勉強=悪玉論への反論」、「日本人の性格変化」、「人生にとっての受験勉強の意義」、「日本全体からみた受験勉強の功罪」という4章構成になっているが、依拠する立場やロジックから主張内容を分類してみると、
  1. 御自身の精神分析学の立場から諸現象を解釈している部分
  2. 既存の精神分析学の一派あるいはそこから派生した固定観念を批判している部分
  3. 精神分析学と無関係に形成されているステレオタイプを批判している部分
のあることに気づく。

 まず、上記1.に相当する部分としては、1970年代中盤を境にした学生のパーソナリティの変化についての解釈がある。具体的には、メランコ人間(躁うつ病型)の時代からシゾフレ人間(分裂病型)の時代への変化があったという指摘[p.52〜54、115〜120]であり、実際この頃から、五月病に代わってスチューデント・アパシーが問題にされるようになったという。

 1971年に大学に入学し1980年に大学院を出た私自身、その変化は身にしみて感じた。もっとも、あの当時はベトナム戦争の終結などによる世界情勢の変化や学生運動の衰退が顕著であった。それまでの学生のようにバリケードストライキに参加するのか、団交の場から逃避(もしくは政治闘争は学生の本分ではないとして)勉学に没頭するのかというような二者択一型の選択を求められることは無くなった。「パーソナリティの変化」は事実であるとしても、もう少し外部的な諸要因に因果的説明を求めたいところがある。

 余談だが、Web日記もメランコ型(躁うつ病型)とシゾフレ型(分裂病型)に分けることができるだろう。もっとも個々の人間がそういう形でタイプ分けできるものなのか、同一人間の行動特性を二次元モデルとして説明する時のファクターとして「メランコ要因」と「シゾフレ要因」を取り入れたほうがよいのか、このあたりはまだまだ考える余地があるように思える。
【思ったこと】
_00204(金)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(2)精神的混乱(ターモイル)/モラトリアム/挫折体験

 昨日の日記の続き。昨日の日記で和田秀樹氏の著作の記述が
  1. 御自身の精神分析学の立場から諸現象を解釈している部分
  2. 既存の精神分析学の一派あるいはそこから派生した固定観念を批判している部分
  3. 精神分析学と無関係に形成されているステレオタイプを批判している部分
という3つの部分に分けられることを指摘した。本日はこのうちの2番目に該当すると思われる点について感想を述べることにしたい。
 まず、特に注目したいのは
精神分析的な発達理論の中には、乳幼児の心をあまりに一方的に仮定したものだと批判されているものもある。アンナ・フロイトの理論などは、精神分析の患者の心から、乳幼児の心の発達を類推したもので、およそ科学的には正確とは言えない[p.35、長谷川による要約]。
という部分。

 行動分析が
現在の問題行動はその行動に現時点で随伴している強化因によって強化維持されており、過去体験の影響は習得性強化子の質と量に自ずと反映している
という見方を取るのに対して、いっぱんに精神分析的な治療においては、何かがきっかけになってノイローゼが発症したとしても、そのきっかけにノイローゼの原因を求めるのではなく、なぜそれがきっかけになってノイローゼになったのかを考える(p.34)とされている。

 この精神分析的な見方と、上記の批判は、精神分析的な思春期の発達理論を批判しておいて、受験勉強ノイローゼ説の批判に精神分析の考え方を利用するのは矛盾があるのではないか(p.35)という疑問をもたらす。この点について、和田氏は、「発達理論としての精神分析」と「治療理論としての精神分析」が異なるというロジックを用いて弁解しておられるようだが、私にはまだ納得できないところがある。

 これより少し前の所で和田氏は
思春期の精神的混乱(ターモイル)は正常なものであるばかりか人間発達上不可欠な調整期間であるとの主張には根拠は無い。ターモイルを経験させた子供のほうがその後のメンタルヘルスや発達がよくない。少なくともわざわざ放任主義をとっても結果はよくならない[p.24〜29、長谷川による要約]。
という指摘もしておられる。

 受験勉強からは脱線するが、一部の臨床家の中には、不登校や引きこもり、あげくのはてには家庭内暴力までもを、人間発達上必要なモラトリアムの時期であると解釈し、積極的な介入を避けようとする流派があるが、この御指摘にもっと耳を傾ける必要があるように思う。

 ここで、ターモイルに関連して「挫折体験」についてちょっと考えてみたいと思う。世間には「挫折体験が無く、エリートコースを突っ走った子供」を悪いものと見なす風潮があるようだ。しかし、エリートコースを突っ走るにもそれなりの努力が欠かせない。挫折があったかどうかはあくまで結果の話。努力のプロセスを問題にしなければ意味がない。

 「挫折体験」のあった人が評価されるのは、挫折した人の気持ちが分かるということと、挫折にどう対処するかという自己強化の技法を身につけているためであろう。もちろんそのことは貴重な体験ではあるのだが、だからといって、挫折しない人より経験が豊富であるとは一概には言えない。挫折しなかった人は、挫折を事前にくい止めるだけの種々の対処法を身につけている人であるとも考えられるからだ。

 それと我々がよく聞く「挫折体験」とか「苦労話」というのは、おおむね、一度は挫折したがそれから立ち直った人の話。科学的に分析するのであれば、挫折して立ち直った人と、そのまま立ち直らなかった人の体験を公平に比較しなければ何が違いをもたらしたのかを同定することはできない。しかし、立ち直らなかった人というのは通常表に出てこない。「合格体験記」に比べて「不合格体験記」が注目されないことをみればよく分かる。

 風邪で寝込んでいるため論旨があいまいになってしまった。次回に続く。
【思ったこと】
_00217(木)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(3)推薦入試は学力検査入試より素晴らしいか(前編)

 2/4の日記の続き。今回は推薦入試についてとりあげてみたい。なお、この連載は、和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)に言及しながら受験勉強をとりまく諸問題を考察することを目的としているが、この前編では私なりの現状認識を述べるにとどめ、次回以降に和田氏の御主張に言及していくこととしたい。

 推薦入試の制度は私が高校生の頃には始まっていたので、少なくとも30年以上の歴史があったと思う。この制度のメリットとして私が理解しているのは
  • 受験戦争があまりにも激化すると、高校生たちは学校の勉強に身を入れず、放課後の塾通いに精を出すようになってしまう。これでは高校でちゃんと教育できない。推薦入試を望む高校生だったら素直に学校の勉強に精を出してくれる。
  • 学力試験だけでは、協調性のある学生がとれない。大学側としても、いくら賢くても反社会的な行動に走るような者は入れたくない。多少学力が劣っても、高校の担任や校長が責任をもって保障してくれる学生を入学させたい。
  • 一部の大学では、定員の数倍に及ぶような水増し合格者を決めても、別の大学に合格するとさっさと入学辞退されてしまう場合がある。滑り止めの結果として不本意ながら入学してくるような学生を受け入れるよりは、合格したら必ず入学手続をさせると高校が保証してくれる推薦入試のほうが大学にとって都合がよい。
 Z会のオリジナルリサーチなどを見てもわかるように、大学の推薦入試は全国の多くの大学で取り入れられており、それなりの成果をあげているものと判断される。もっとも、メリットばかりがあるとは限らない。よく言われるデメリットとしては、
  • 早めに合格が決まってしまうため、大学入学までのあいだに学力が著しく低下する。
  • 高校側が必ずしも最優秀の生徒を推薦してくるとは限らない。高校側としてはとにかく一人でも多くの生徒を希望大学に入れることが至上命題となっているため、一般入試(学力検査入試)で十分に合格できる生徒をわざわざ推薦枠に投入することはしない。一般入試では合格が危うい生徒を救う手段として使われる恐れがある。また、高校間の格差があるため、内申書成績をそのまま信用するわけにはいかない。
  • 大学側で行う面接試験が、本当に信頼性、妥当性のある判断を下しているのかどうか疑わしいところがある。外面的な印象だけで高く評価されてしまうことは無いのか。裏口入学の恐れは無いのか。
  • 過去何十年もの歴史があるわりには、推薦入試で大学に入った学生が各界で活躍しているというような情報をあまり聞かない。一流の科学者、医師、弁護士、政治家などで推薦入試合格者の比率が有意に多いという情報はいっこうに伝わってこない。
 このように長短両面をもち何十年もの歴史を有する推薦入試であるが、少なくとも私の周囲では、これを取り入れようとする動きが最近急速に高まってきたように思える。その理由として考えられるのは
  • 平成11年12月16日の中教審答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の中で、入学者受入方針(アドミッション・ポリシー)の明示、「公平」の概念の多元化といった提案がなされ、従来、学力検査や小論文試験だけで入学者を受け入れていた大学・学部の中にも、多様な選抜方法の1つとして、推薦入試を取り入れる動きが出てきた。
  • 少子化によって受験生が大幅に減り、国立大といえども定員割れを起こす恐れが出てきた。多様な形で入学者を確保する手段として推薦入試も重視する必要がある。
  • 独立行政法人化が取りざたされる中で、地元教育界との間に太いパイプを作っておく必要があること。地方の国立大学といえども全国に開かれた大学であることに代わりはないが、これからは地元の支持なしには存続しえない状況が出てきた。
といったところだろうか。しかしこうした議論の背景には、学力検査入試に対する固定観念、推薦入試に対する過度の期待が横たわっているようにも見受けられる。後編では、主として受験生の側から推薦入試制度をとらえた場合にどういう問題があるのか、和田氏の著書を引用しつつ、私なりの意見をまとめてみたいと思っている。
【思ったこと】
_00218(金)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(3)推薦入試は学力検査入試より素晴らしいか(後編)

 昨日の日記の続き。今回は、『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(和田秀樹、河出書房新社、1996年)が指摘している推薦入試の問題点について考えてみたいと思う。和田氏の著書の中で特に注目すべき部分を要約すると次の3点になる。
  1. 【受験勉強はクラスメイトを競争相手にしてしまうと言うが→】課題(タスク)のないグループは個人を退行させる[p.172〜178]。進学校や予備校ではむしろいじめは少ない。むしろ他校に負けたくないとか、一緒に東大を受けるという連帯意識があった。内申書重視・推薦入試制度のほうがむしろ校内での連帯感を困難にする[p.39〜40、176〜178]。
  2. 【学力試験の結果だけではモラルを欠いた学生が医学部に入ってくると言うが→】モラルを欠いた医者が生まれてくるのは、学力偏重の入試に原因があるのではない。むしろ教授専制支配型の医局の体質がモラルの無い人間を作る[p.59〜66]
  3. 【面接試験や小論文試験は通常の学力試験では見られない能力を見出せると言うが→】.面接や小論文のように人の目が介在しすぎるシステムはシゾフレ人間には適さない。むしろ、偽正常の病理を悪化させるし、せっかく優秀でありながら対人恐怖症である人々のチャンスを奪う恐れがある[p.189]
 まず第1について。学力検査を主体とした受験戦争はしばしば、個人間の競争を生み出し、友情や連帯感をぶち壊し、イジメや不登校の元凶であるかのように批判されことがあるが、和田氏はそれがむしろ逆であることを指摘しておられる。

 そもそも競争というのは、少ない定員に対して志望者が集中した場合に起こる。しかし、これは志望者全体の中での話であって、高校内部での競争ではない。例えばクラスメイトと一緒に東大を受験した場合、そのクラスメイトの合否が自分自身の合否に影響を与える確率はきわめて小さい。となれば、同じホテルに宿泊したクラスメイトを蹴落として自分だけ入ることを画策するよりも、お互いに直前まで有益な情報を与えあい励まし合って受験に臨んだほうがよい結果が得られるに決まっている。さらに進学校になれば、自校から如何にたくさんの合格者を出すかということにも関心が集まる。高校野球の応援と似たような雰囲気も出てくるはずだ。もちろん、そういう中で形成される友情や連帯感が、ボランティア活動の中で芽生える助け合いの精神と同一のものであるかどうかは考えてみる必要があるけれど、少なくとも受験戦争が学校内部での友情を破壊するというのは固定観念。いじめというのは、むしろ明確で実現可能な具体的な目標を見出せない生徒たちが多い高校の中で起こるものとも言えよう。

 次に2番目の点。薬害エイズを初め、医師による保険請求の水増し、脱税、誤診隠しなどが明るみに出るたびに、
そういう医者が出るのは学力偏差値重視の入試を通じてモラルを欠いた学生が入ってくるため。だからこそ推薦入試を導入して多少学力が劣っても倫理的に問題の無い志願者を入学させるべきだ。
といった主張が出てくる。これに対して和田氏は、教授が絶対君主となっているような一部の医局の中でモラルを欠いた医師が作り出される可能性を指摘している。そういう医局のもとでは、ボスがどんなに悪いことをしても内部告発はしづらい。もし告発に失敗すれば二度と出世することはできないからだ。とすれば、もし、医学部で、面接試験だけで合格者を決めてしまうような入試を大幅に取り入れることになると、人物的に優秀な受験生ではなく、むしろ医局のボスの不正には目をつぶり、上司に常に従順であるようなタイプの受験生が選ばれてしまう可能性だってある。もっとも、このあたりの議論を進めるためには、過去に不正行為を行った医師がどういう入試で合格しどういう医局の出身であったのかについて実証的な根拠を得る必要があるだろう。

 第3の点は、面接試験という時間的に限られた緊張場面の中で「選ばれやすい」受験生にはそれなりの特徴があるという意味。いくら研究業績を積んだ教授であっても、面接試験で人を選ぶことについては全くの素人。しかも合否判定の経緯は機密事項であって外部評価を受けることがない。そういう方法で受験生の将来を決めてしまってよいものかどうか、疑問の残るところがある。

 昨今の改革論議が「推薦入試は学力検査入試より素晴らしいか」という二者択一型論議ではなく「学力検査も推薦入試も」という併用型の是非についての議論であることは承知している。とはいえ、学生定員を別枠で増やすわけではない以上、多様化重視というムードだけで学力検査の定員枠を減じるわけにはいくまい。

 いずれにせよ、昨今の入試制度改革論議がもっぱら大学側の都合だけで進められてきた点は否めない。推薦入試あるいは、今回は取り上げていないがAO入試などの選抜方法が総合的にみてどういう高校生を作り出していくのか、大学合格という1つの具体的目標に変えてどういう目標を与えうるのかという点を、高校生の立場から考えてみる必要があるように思う。なお、昨日の日記で少しとりあげた中教審答申については別途、私なりの意見を述べたいと思っている。また、AO入試を含めた「努力」をめぐる問題を1999年7月9日の日記(保管場所はこちら)で取り上げたことがある。併せてご覧いただければ幸いです。
【思ったこと】
_00313(月)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(4)マラソン代表選考と入学試験の公平性
2月18日の日記の続き。すでに国立大学の後期試験も終わってしまった。もともと受験シーズンに合わせたタイムリーな連載として始めたつもり。早く完結させなければ...。なお今回は、和田秀樹氏の著作とは直接関係ない話題。
 さて、各種報道によれば、日本陸上競技連盟は13日、シドニー五輪代表の残り2名を決定したという。この種の選考では、客観的な結果だけでなく、人(=連盟)の手による判断が介在するため、選ばれなかった候補やそのファンには常に後味の悪さが残ることになる。

 4年前のことだったか、アメリカの200m競走の選考でカール・ルイスが外されたというニュースがあったように記憶している。候補者全員をそろえて予選を行えば、敗れた者も自分なりに納得できる。「メダルの獲得数にこだわるよりも、有力候補全員を揃えて同時に競い合わせ、その結果だけで代表を決めたほうがよっぽどスッキリするのでは?」とか、「選考基準の客観性・透明性を高めるべきだ」との声もあるようだ。

 こうした問題は、より一般的な「公平」感に大きく関係している。大学入試(学力試験)でもこのことは最も重要な要素とされている。98年1月18日の日記の「ちょっと思ったこと」に書いたように、
センター試験で実施者や監督者がいちばん気を配ることは何か? 「受験生への最大限のサービス」や「思いやり」では決してない。正解は受験環境の平等・公平性、つまり「全国どの会場のどの座席でも同じ条件で受験できること」だ。
このように、公平性は入学試験の実施にあたって最大限に尊重されなければならないこととされてきた。

 ところが、近年、この「公平」についての考えを捉え直そうという動きが出ている。平成11年12月16日の中教審答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の31頁には「『公平』の概念の多元化」という見出しで次のような記述が盛り込まれている。重要なところなのでその部分を以下に全文転載させていただく。但し、OCRで読み込んだため、一部認識ミスがあるかもしれない点をお断りしておく。
(3)「公平」の概念の多元化
 中央教育審議会では,これまでの学力試験による1点差刻みの選抜が,受験生にとって最も公平であるという概念を見直すよう呼び掛けてきたが,このような考え方は依然として根強く残っているように見受けられる。今後は,各大学がそれぞれの教育理念等にふさわしい資質を持った学生を見いだすための選抜を行うことが重要であり,そのためには,何が公平かについて,多元的な尺度を取り入れることが必要である。いわゆる1点差刻みの客観的公平のみに固執することは問題であると考えられる。例えば,学力検査のみの選抜を行うところがあってもよいし,それ以外の多様な方法による選抜を行うところがあってもよい。その際,教科・科目の基礎的な知識量だけでなく,論理的思考能力や表現力等の学習を支える基本的な能力・技能や大学で学ぶ意欲がどのぐらいあるかといった視点で判定することや,入学時点での学力だけでなく,意欲や関心の強さも含めて入学後に伸びる可能性も考慮に入れて判定することも必要である。
 大学側でも,自らの大学(学部・学科)の教育理念等に合致した入学者選抜の在り方を模索し始めたところであるが,一層の入学者選抜の改善を進めるためには,社会においても,選抜方法の多様化・評価尺度の多元化の意義を認め,大学側の多様な試みを支援することが望まれる。
 時間が無いので、この続きは次回以降とさせていただくが、上記の選抜方法の多様化の提言は、適した人材を選ぶという大学サイドの都合を考える上では大いに納得できる点があると思う反面、受験生に具体的にどういう努力目標を与えるかという受験生サイドから見た時には、かえって大きな不安を与えているように私には見える。

 公平というのは、単に主観が入らないとか文句が出ない工夫をするということではなくて、もっと根源的に、努力をした者が、その努力に応じた結果を享受できるかどうかというところにあるように私は思う。
【思ったこと】
_00314(火)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(5)受験制度が社会や大学教育に与える影響

 昨日の日記の続き。きょうは、この連載の元ネタである和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)に戻って、「第2部:受験勉強は人生に役立つのだろうか」(149頁以降)、という問題に進んでいきたいと思う。

 和田氏は、「受験の要領と人生の要領はどう違うのか」(156頁〜)に関連して、
  1. 完全に異論のない理想的な受験システムはありえない。最善のものを選ぶという妥協が必要。
  2. 1つの選別だけでその人の一生を決めてしまうシステムにしてはいけない。
という2点を指摘しておられる。新潟の女性長期監禁事件が発端となって問題視されているキャリア制度などは、まさにこの2番目の問題の最悪のケース。警察官として長年経験を積んだ人はなく、公務員上級職に採用されてロクに実体験をもたないような人が税務署長や警察署長になってしまうというのは、下積みの経験の重みをないがしろにする愚策だと思う。もし、上記2.を大学入試や学歴社会の弊害であると主張するなら、それ以前にキャリア制度を根本的に見直すことが必要だ。

 次に和田氏は、社会的な選別システムとして、かなり大ざっぱだと断った上で
  • ヨーロッパ型の世襲社会
  • アメリカ型の実力社会
  • アジア型の学歴社会
という3つの選択肢を比較しておられる。もっとも、このラベリングには少々難があるかもしれない。例えば、以前に在外経験の長い某Web日記作者が書いておられたが、アメリカが実力社会かどうかは大いに疑問。アメリカン・ドリームというのはごく一握りの成功例が誇大に伝えられているだけだと聞いたことがある。「アジア型の学歴社会」というのも資産家の子弟の中での受験熱と言えないことがない。

 ま、それはそれとして、受験勉強の功罪や入試制度の問題は、単に大学側の都合ではなく、それが総じて支配構造や経済の発展にどういう影響を及ぼすのかというところまで考えていかなければならないことは確かだ。



 やや話題がそれてしまうが、大学の教育の改革も受験制度を抜きにしては語れない。最近の大学改革に関する審議会答申などでは、「アーリー・エクスポージャー」、「アカデミック・アドバイザー」、「アドミッション・オフィス」、「インターンシップ」、「オフィスアワー」、「グレード・ポイント・アベレッジ」、「シラバス」、「セメスター」...というようにカタカナ表記のキャッチフレーズばかりがやたらに目立つ。これらの多くはアメリカの教育制度由来のもの。しかし、周知のように、アメリカと日本では受験制度が根本的に異なり、これは大学教育の内容にも大きな違いを与えている。前の章に戻るが、和田氏は、28〜29頁で、
......アメリカの学生は、母国語でたった二、三枚のレポートを書くのに、まる一日とか、それ以上かかってしまうこともあると聞く。.....アメリカでは、日本流に言うなら、第一外国語を、日本の中学校レベルのものにするのに最低二年くらいかかっている。一行の作文を、十問くらい宿題に出されるとアップアップなのだ。...[29頁]
と、伝聞あるいは自らの印象にすぎないことを断ったうえで指摘しておられる。このあたりは、日本でもアメリカでも大学間でかなりの格差があると思うが、いずれにせよ、それぞれの大学の実状を考慮せずに、他の大学でもやっているから、外国でもやっているから、というような安易な理由に流されない姿勢が大切かと思う。

 もっとも、穿った見方をすれば、答申の執筆者もそれらを無批判に受け入れようというのではなかろう。日本の大学教育があまりにも旧来の因習に囚われているので、それに風穴を開けるためにわざと聞き慣れない用語を多用して新鮮味を出そうとしているだけなのかもしれない。
【思ったこと】
_00315(水)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(6)努力、情勢分析、適性など

 昨日の日記の続き。今回は、努力の意味や適性について考えてみたいと思う。

 3/13の日記の最後の部分で
公平というのは、単に主観が入らないとか文句が出ない工夫をするということではなくて、もっと根源的に、 努力をした者が、その努力に応じた結果を享受できるかどうかというところにあるように私は思う。
と述べたことに関して、Web日記や私信でいくつかご意見をいただいた。ここで、もう少し「努力」とは何かについて考えてみたいと思う。『新明解』によれば、
努力:ある目的を達成するために、途中で休んだり 怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすること。
とされている。この場合の目的は、きわめて私的な内容を主体とする場合もあれば、集団に影響を及ぼしたり公共的な性格を帯びる場合もある。前者の場合としては例えば、日本百名山全山踏破、お百度まわり、Web日記100日間連続更新など。後者は、労働や研究活動、福祉活動など。

 努力の結果が自分だけに及ぶ場合は、周囲に迷惑を及ぼさない限り、何を目的にしても結構。また、それを達成するための手段は、合理的であっても、端から見て非合理的で無駄の多いものであってもかまわない。というか、その場合に得られる生きがいは、最終的な「結果」ではなく、むしろ、それを達成するプロセスに「結果」が次々と随伴することによって得られるものと考えられる。四国八十八箇所巡りをする場合などでも、単に八十八箇所を達成するという「結果」だけを目的にするならば、タクシーをチャーターして早巡りをすれば済むこと。そうでないというのは、足で巡りながらいろいろなことを考え、また地元の人達と交流する中で得られる「結果」の蓄積のほうに本当の意義を見いだすためであろう。

 いっぽう、努力の結果が特定の集団に及ぶ場合、さらには公共的な性格を帯びている場合は、努力をした者に対して、その努力に応じた結果が与えられるとは必ずしも言えない。なぜなら、通常、この種の努力は、プロセスではなく成果によって評価されてしまうからである。起業家がどのように努力しても倒産すればそれでおしまい。周囲からいくら「よく頑張った」と慰められようとも新たな資金が供給されるわけではない。農家がどのように努力して白菜を作っても、他の地域で大量の出荷があれば価格は暴落する。好むと好まざるとに関わらず、この社会では、努力がその量だけに応じて評価されることは決してない。

 では、公共的な性格を帯びた努力において、努力量以外に求められるものは何だろうか。それは、おそらく
  1. 努力すべき行動を適切に選択すること
  2. 努力の量ばかりでなく、努力の質(有効性、時として要領のよさ)の向上にも目を向けること
ということに尽きるかと思う。念のため言っておくが、この2点が望ましいことなのかどうか私には分からない。ただ、この社会という前提のもとで「努力し、の努力に応じた結果を得る」ためには、好むと好まざるとに関わらず、それらに目を向ける必要があることは確かだ。がむしゃらに努力するだけでは実を結ぶハズがないのである。

 さて、この連載の本来のテーマである『受験勉強は子どもを救う』かという問題に戻るが、和田秀樹氏は、今回の問題に関連して
...入試の本質とは、単に学力を見るものではなく、自分の能力を把握したり、出題傾向から何を勉強すればよいかと読み取って分析したり、そこから生まれた計画をきちんと実行して自分を律したりといった能力を見るものである[185〜186頁]。
と指摘しておられる。つまり、受験制度とは、ただがむしゃらに勉強する行動を強化するシステムではない。的確な情勢分析力、適性・能力把握、目的達成のための有効な手段の確立といったさまざまな判断能力を磨くシステムとしても機能しているという点を見落としてはならないと思う。

 なお適性ということに関して、「毎日の記録」(3/14)さんから以下のようなご意見をいただいた。
.....例えば、芸術の 場合、努力と成果は残念ながら、必ずしも比例しないので、芸術系学科の入試では、適性のある人が高い評価を得られるような選抜が必要なのではないかと(あるいは、適性のない人を受け入れない「優しさ」が必要なのではないかと)。 現在、問題になっている医学系学科の入試や、司法試験などについても、同様。おそらく、 文学にも、農学にも、工学にも、同様のことが言えるはず。もちろん、努力が 無価値であることはないので、結局は、努力と適性とをバランス良く評価する ことが必要なのだと思う。適性の有無に関らず、試験対策という一過性の努力さえすれば、合格してしまうような選抜方法は、一見、公平に見えて、個々が持つ違いを無視するという意味で、実は、ものすごく不公平なのではないか、と思う。
 少なくとも私がこれまで論じてきた入試制度というのは、決してセンター試験の合計点だけで一律に合格者を決めてしまおうというものではない。それぞれの大学が出題科目や出題内容を工夫し、多様化させれば、安易に推薦入試とかAO入試にはしらなくても、適性、個性、意欲(のプロセス)は十分に客観評価できるであろうということだ。芸術系や体育系の実技試験にはそれなりの公平性があると思う。適性は努力と独立して存在するものではない。努力機会を多様化することが適性を尊重した公平性を保障する唯一の道であると考えている。

 なお上記の中の医師の適性については、2月18日の日記で指摘したように、むしろ入学後の指導体制のあり方を考慮していく必要があるように思う。
【思ったこと】
_00320(月)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(7)要領のいい人

 3/15の日記の続き。今回は、和田氏の「第2部:受験勉強は人生に役立つのだろうか」に関連して「要領のよい人」ということについて考えてみたい。前回の日記で引用したように、和田氏は、ただがむしゃらに努力するだけの受験勉強を決して推奨していない。
..入試の本質とは、単に学力を見るものではなく、自分の能力を把握したり、出題傾向から何を勉強すればよいかと読み取って分析したり、そこから生まれた計画をきちんと実行して自分を律したりといった能力を見るものである[185〜186頁]
としているのだ。つまり、ここでいう受験勉強とは、親や学校の先生の言われるままに志望校を選択したり、言われた通りの課題をこなすことでは決して満たされない。明確な志望動機があり、その上で主体的に道を切り開く力を磨くべきだと言っているのである。

 和田氏はさらに、ベストセラーになった『受験は要領』という著書の要領の意味について
...その要領とは、情報処理能力や、決断や割り切り、スケジューリングのことである。これは受験だけの要領ではない。ここで身につけた能力を社会で活かすことができれば、人生の要領となりうるし、このような要領をみにつけた人間がたくさんいるということは、日本という国の今後のために、損のないことだと私は信じているのだ[193頁]。
としている。『新明解』によれば、「要領のいい人」というと「手際がいい人」という意味のほかに
表面的にはいいように見せかけ、実際の作業は手を抜くことのうまい人
というマイナスのニュアンスが含まれているが、和田氏が主張する要領はむしろ
努力を有効な方向に配分する力
ということになるかと思う。

 上記の、スケジューリング、つまり、試験日までにどういう手順でどれだけのことを達成するかという、目標設定と課題遂行についての要領の良さのほか、試験当日、与えられた時間の範囲で、最大限に努力を発揮するための要領のよさというのも大切。いずれも、「頑張ったけれど時間が足りなかった」という言い訳は通用しない。「時間を最大限に有効に活かす」というのも公共的な性格を帯びた努力では不可欠の要素になっているのだ。

 ところで、こうした要領の良さというのは、何も受験勉強だけに求められるものでも無かろう。各種のスポーツでも、ただがむしゃらに練習量を増やしてもスキルは上達しない。どこに自分の持ち味があるのか、どういう弱点を直せばよいのか、これを的確に判断しながら、練習という努力を有効な方向に配分することが大切なはずだ。もちろん、これは、将来の職業選択、仕事の遂行、人生設計全体についても言えることだ。

 昨今、AO入試の導入の理由として、「明確な志望動機」なるものが挙げられることがあるが、願望としての志望動機が高いだけでは、課題の遂行には決して結びつかない。今回とりあげた要領の良さとは、まさに、「明確な志望動機を達成するために努力をどのように有効に配分するか」という意味。入試で問うべきものが、願望の強さではなくそれをどう実現できるかという遂行力のほうにあるとするならば、それを測るためには、やはり学力試験や実技試験のような何らかの作業検査を含めることが必要であろうと私は考えている。

 最後に、繰り返しお断りしておくが、ここで取り上げている入試制度というのは、センター試験の合計点だけで一律に合格者を決めてしまおうというような画一的なものではない。和田氏自身、例えば、入試を9月、1月、3月の3回に分けて実施し、その合計点で判断する入試などもありうるとしている。一芸入試についても、受験が楽だからという不純な動機の生徒が集まるようなものはダメだが、大学側が入学後の最低線のレベルをきっちり想定しフォローアップ体制を確立した上で必要最低限の科目にしぼって入試を行う利点については必ずしも排除しているわけではない。
【思ったこと】
_00326(日)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(8)タスクのないグループは個人を退行させる?

 3/20の日記の続き。今回は、和田秀樹氏の「第3章:受験勉強の人生における意味とは」に関連して、グループ心性について考えてみることにしたい。

 和田氏は第3章の中で「課題(タスク)のないグループは個人を退行させる」として、シゾフレ人間(分裂病型人間)にとって受験勉強が役立つという主張を展開されている。ここで引き合いに出されている「グループ心性の理論」とは、ビオン[Bion (1961). Experiences in groups.]が提唱したもの。和田氏自身のご専門に「集団精神療法学」が含まれていることからみて、かなり自信のありそうな御発言だ。

 和田氏によれば、人間がグループになると必ず2つの側面が表れる[p.172]。1つはタスクを遂行する作業グループ、もう1つは、“グループに置かれることで生じる精神的な不安に対処すべく、グループ全体があるパターンの行動を起こすという基底想定グループ”と呼ばれるもの。基底想定グループには次の3つがある。
  • 依存グループ:万能なリーダーにすべてを頼る
  • 闘争・逃避グループ:仮想的を作って、それを叩くか、逃げる。
  • つがいグループ:グループの中にカップルを作り、その空想上の子どもに対する期待から希望や幸せに満ちた雰囲気を作る。
 前回の米国大統領選挙を例にあげれば、イラクを叩くことでブッシュが支持を集めたのは「闘争・逃避グループ」心性、実業家のロス・ペローのカリスマ性は「依存グループ」心性、クリントンとゴアのコンビが「つがいグループ」心性、また日本国内では、オウム、カリスマ型のタレント、カリスマ型の都知事候補が支持を集めるのが「依存グループ」心性、北朝鮮を仮想敵とすることが「闘争・逃避グループ」心性、タレントの結婚や、きんさんぎんさんが話題になるのが「つがいグループ」心性にあたるとされている。
日記猿人登録日記作者の中でもある種のグループ心性が生じることは確か。カリスマ性の高い日記、「つがい」、「闘争、逃避」、次に述べる「スケープゴーティング」などは、それぞれ思い当たるところがある。
 ではこのグループ理論は受験勉強とどう関係してくるのだろうか。和田氏は、いじめを引き合いに出してこれを論じている。

 和田氏によれば、いじめというのはグループ心性の中で生じるスケープゴーティング。いじめを無くす手段としては、
  • 個人個人を競争させることでグループを作らない。
  • クラス全体にタスクを与えたり、クラス対抗で何かをやらせることで、クラスを作業グループにする(=基底想定グループにしない)。
  • 「金八先生」のようにカリスマ性のあるリーダーを配置し、依存グループをつくる。
  • いじめという形でない仮想敵をつくる。例えば他クラスとか他校とか。
 公然と成績順位を公開をする予備校や塾でいじめが少ないのは、物理的にいじめをする時間が無いことや、通う自由があることのほか、
  • クラスがグループにならず個人心性が優位になる。
  • タスクがはっきりしているので基底想定グループになりにくい。
  • カリスマ性のある講師が多い。
による。
 そこで、受験勉強一般も、高校において、グループに与える1つのタスクとなり、グループ心性から個人心性に戻す役割を果たし、全体として人間を退行させないタスクとして機能しているというのが和田氏の主張である[p.178]。

 以上の和田氏の御主張の中で、具体的なタスクを与えることの重要さはよく分かるのだが、グループ心性のどの特徴がスケープゴーティングを生み出すのかについては、私にはよく理解できなかった。受験勉強がいじめを無くす1つの方策になりうるという程度の控えめな主張として受け止めておきたい。

 和田氏は「集団精神療法学」の立場から心性という言葉を使っておられたが、行動分析的視点から見直してみると、グループなり個人なりの行動の特徴を決定づけるのは結局のところ随伴性ではないかと私には思われる。上記の、「タスクを与える」、「仮想的を作る」、「カリスマ性のあるリーダーに従う」というような状況の設定はすべて随伴性の変更を意味している。随伴性の変更がそれまでと違った行動を強化したり、それまでと違うタイプの事象が強化子として機能するようになる。その結果として変わるのが心性だ。「心性を変える」ための具体的な働きかけは、結局のところ、随伴性を変えることに帰着するというのが私の考え。
【思ったこと】
_00404(火)[心理]『受験勉強は子どもを救う』か(10) 「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」について考える(前編)

 4/3の日記で、 自由党の分裂に関連して、和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)から以下のような引用をした[p.111、2/14の日記参照]。
 シゾフレ人間にとっての首尾一貫とは、今の周囲の世界に合わせることであり、メランコ人間にとっての首尾一貫は、自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせることなのだ。メランコ人間にとっては、それまでとってきた態度を平気で変えて、周りの言っていることに何でも合わせるシゾフレ人間の言動が非常にチャランポランに見えるだろうが、シゾフレ人間にとっては、それで首尾一貫しているわけである。
 政治家の場合は、議員個人の主義主張のほかに役職や選挙区の事情、支持者の意向などが複雑に絡んでくるので、「連立参加+保守党設立」という行動と、「連立離脱+自由党残留」という行動のどちらがシゾフレ型でどちらがメランコ型なのかは判断が難しいことだが、社会一般の諸々の行動特性を考えるにあたってこうした比較軸を設けること自体は大いに意義があるように思う。

 もっとも、和田氏が主張されている「メランコ」、「シゾフレ」という概念は精神医学用語を健常者の行動特性に転用したものであり
【分裂病と躁うつ病の2つが】人間の精神的な退行の行き着く果てだとすれば、人間のパーソナリティは分裂病に引かれやすい人と躁うつ病に引かれやすい人に分かれるはずである[p.82]。
が前提条件となっている。またこの区別の根底には
  • メランコ人間:心の世界の主役は「自分」。妄想のタイプが「自分は悪いことをしている」「自分は正義の味方だ」などとなる。
  • シゾフレ人間:主役は「周囲」。妄想のタイプが「周囲が自分の悪口を言っている」など)となり[p.82-84]、病的でないにせよ「自分のない」感覚が強い[p.99]。
という「世界の主役は誰か」に関しての明確な区別がある。

 しかし、社会一般の諸々の行動特性を考える比較軸を設けるだけであるならば、「メランコ人間」は「原則堅持型人間」、「シゾフレ人間」は「柔軟対応型人間」と置き換えれば済むこと。精神医学的な背景は必ずしも必要ないように思える。

 日常社会からいくつか例を挙げれば、
  • 嫌煙権を主張する人:
    • 「原則堅持型人間」:どのような会席でも、たとえ場が白けても禁煙の徹底を主張する。
    • 「柔軟対応型人間」:その時々の状況に合わせ、場合によっては、隣りでタバコを吸う人が居てもニコニコしている。
  • 君が代斉唱に反対する人:
    • 「原則堅持型人間」:入学式や卒業式で起立を求められても席を立たないし歌わない。
    • 「柔軟対応型人間」:押しつけには反対意見を表明するが、斉唱が行われる場面では起立して場の状況に合わせる。
  • 交通安全運動を推進する人:
    • 「原則堅持型人間」:車が一台も通らないような過疎地域の交差点であっても、赤信号の時には信号が青になるまで横断を控える。
    • 「柔軟対応型人間」:四方を見渡して安全が確認されれば、信号が赤でも横断する。
 行動分析的視点から見れば、「原則堅持型人間」とは、「特定のルールに一致した行動をすること」、あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をすること」というように、自己のルールや過去に一致すること自体が強化的になっているような人間、「柔軟対応型人間」とは、周囲の状況に一致すること自体が強化的になっているような人間として捉え直すこともできる。この場合、好子(正の強化子)の所在が「自己のルール」か「周囲」かというように異なることは確かだが、世界の主役は誰かということまで想定する必要は無いし、人間の精神的な退行の行き着く果てが何かということまで論拠を求める必要も無くなる。

 「メランコ」vs「シゾフレ」と呼ぶにせよ、「原則堅持型人間」vs「柔軟対応型人間」という比較軸を設けるにせよ、和田氏も指摘されているように[p.115〜116]
  • 国が勃興期で、頑張れば頑張るほどいい暮らしができるが、頑張らないと貧乏しなければならない時代→メランコ人間が増える
  • 国が非常に貧しく食うや食わずの時代&非常に豊かになってみんなと同じでも食べていける時代→シゾフレ人間が増える
という可能性は確かにあると思う。行動分析的に言えば、一貫した努力に対してどういう結果が用意されているかの違いということになるだろう。勃興期や国の変革期には、立志伝や国の変革に命を捧げる行為が尊ばれる。経済が発展してくると、価値観が多様化し、「原則堅持型人間」はむしろ融通のきかない頑固者としてケムたがられるようになるということか。
【思ったこと】
_00428(金)[一般]『受験勉強は子どもを救う』か(11)大学入試改善に関する中間報告

大学審議会は28日、大学入試改善に関する中間報告をまとめ公表したという。その要旨は
  • センター試験に関して
    • 資格試験的な取り扱いを進める。
    • 過去問の再出題可能に。
    • 総合問題の導入
    • リスニングテスト導入
    • 12月、1月の2回実施。良い方の成績を活用
    • 大学の判断で2002年から前年の成績も利用可能に
    • 成績の本人への開示。
  • 専攻分野は入学後に適性や関心に基づいて決める。学科単位ではなく学部単位で募集することを検討。
  • 入学後の教育を考えて受験科目を増やすことも可能
  • 二次試験の前期・後期比の適切化
  • 入試業務合理化。事務職員の活用
  • 入試問題作成に外部の協力検討。外部試験の活用
  • 入学選抜のあり方を大学の評価対象に
  • AO入試では学力検査を2月以降に実施
となっている。これらの大まかな方向は、すでに新聞などを通じて事前に伝えられており、4月17日の日記で取り上げたことがある。今回の正式な公表をふまえて私自身の考えを整理してみると、
  • センター試験の資格化については4/17に述べたように
    もしセンター試験が資格試験になるとしたら、「高校卒業」資格とはどこが違うのかという点だ。
    • もし高卒の資格だけでは修得内容が不十分というのであれば、「中高→大学」という進学制度そのものに欠陥があることになる。となれば高卒から大学入学までの間に、予備校のような教育システムを挿入することが不可欠になる。
    • 大学入学の資格が高等学校修了程度であことを前提とした上でセンター試験を実施したところ、結果的に高卒者(見込み者を含む)の半数しか合格しなかったら、どう考えたらよいのだろう。これは、高校側がちゃんと教育せずにいい加減に卒業生を送り出していることの証拠になってしまうのではないか。
  • センター試験の年2回実施については、「本来は大学にとって求められているが、たまたまその時の緊張や不安で十分に実力を発揮できなかった受験生」を救い出すチャンスを増やすという点で大いに意味のあることだ。」と述べたが、その後2回実施の1回目をあまり早期に実施してしまうと、高校のカリキュラムを早期にクリアして受験対策に臨める進学校が有利になるという反対論があることを知った。しかし12月実施ということならそれほど弊害は無いように思える。
  • 入試業務の合理化も大いに結構。特に、監督業務に教員を駆り出す必然性は無いように思う。もっとも国立大の場合、定員削減が進む中で、これ以上事務職員に頼ることは不可能。過重な負担により思わぬミスが発生する恐れすらある。
  • 入試は学科ではなく学部単位で募集するという検討項目は初耳であった。同一学部とは言え、1年次に教えるべき基礎科目の内容は学科によって著しく異なる。例えば外国文学・語学系の専攻の場合はそれぞれの専門外国語を修得する必要があるし、私の所属する行動科学科の場合に限って言えば、むしろ統計学や情報科学、各種調査法などをきっちり学んでおく必要がある。学部単位で募集して後で振り分けるということにすると、結果的に専門基礎的な教育の導入が遅れてしまう恐れがある。どういう理念に基づくものなのか、正式の報告書を拝見した上で改めて意見を述べたいと思う。
【思ったこと】
_00719(水)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(12)「人間性」重視の入試は人間性の選別と否定につながる?

 大阪大学は7/19、来年度の入学者選抜要項を発表した。このうち医学部医学科の入試では、面接が合否判定で重要視されることが初めて明記された。

 該当しているのは医学科の後期日程(定員10人)であり、大阪大学の要項によれば、
面接(面接は人間性と創造性の豊かな医師及び医学研究者となるにふさわしい適性をみるために行い、一般的態度、思考の柔軟性、発言内容の論理性等を評価し、合否判定の資料として重要視する。)
となっており、従来から要項に記されていた(同じページの最下部にあり)
医学部後期日程においては、面接の内容も加味して判定を行う。
の「加味して」表現に「重要視」という文言を加えて、面接によって不合格になる可能性があることを明示した内容になっている。

 今回の文言の追加は入試の選考方法を改訂したものではない。7/20の朝日新聞記事によれば、同大では来年度から、要望のある受験生には入試の成績を開示することを検討しており、それに伴って面接の結果が合否に反映されることを明記する必要に迫られたためであったようだ。

 さてこの「人間性重視」だが、7/20の朝日新聞では
医療への信頼を失わせる事件が多発するなか、医師の適性として人間性を重視する姿勢を改めて示した。
というように、好意的に紹介されているようだが、本当のところはどうなのだろうか。すでに、こちらの連載で何度か指摘しているように、これには次のような問題がある。

 まず第一に、短時間の面接の中で、「人間性と創造性の豊かな医師及び医学研究者となるにふさわしい適性をみることが本当にできるのかという大問題がある。要項では、「一般的態度、思考の柔軟性、発言内容の論理性等を評価」というように、目的を達成するための評価方法が明記されているが、果たして、その「評価」は目的を達成するための妥当で信頼性のある方法になりうるのだろうか。

 こうした面接は、ヘタをすれば縁故入学の温床となりかねない。さらに問題となるのは、
  1. 「良い子」を演じることのできる、仮面をかぶった受験生ばかりが入ってくる恐れはないか。
  2. 「人間性豊か」ではなく、大学教員にとって「楽をして」教えやすい、つまり従順で、セクハラやアカハラ訴訟を決して起こさないようなタイプの受験生を高く評価してしまう恐れはないか。
ということだ。連載で述べているように、薬害エイズを初め、医師による保険請求の水増し、脱税、誤診隠しなどの悪事を働く医師というのは、必ずしも、学力偏差値重視の入試によって、モラルを欠いたまま入ってきた学生によって引き起こされるとは断言できない。むしろ、和田秀樹氏が指摘されているように、教授が絶対君主となっているような一部の医局の中でモラルを欠いた医師が作り出される可能性もあるのだ。

 朝日新聞記事にあった「医療への信頼を失わせる事件が多発するなか、医師の適性として人間性を重視する姿勢を改めて示した。」という説明文はいっけん聞こえがよいけれども、極端な見方をすれば、その種の適性というものが先天的に備わっているかもしくは高校までの生活環境の中で生涯不変と言えるまでに形成されており、「入学後にいくら教育を行っても、医師に適した人間性を育てることはできない」と言っているのと同じ意味になってしまう。

 仮に、臨床には不向きな学生が入り、大学教育を通じても適性を形成することができなかったとしても、基礎部門で優秀な研究業績を挙げる可能性だってあるはずだ。病院の採用あるいは開業医認定の段階で、縁故や開業資金ではなく、患者に接する医師としての応対能力や倫理意識をきっちりと審査すればそれでよいではないか。大学入試の段階で研究者として有能な学生を面接で落としてしまい、そのために癌治療の研究が10年遅れるということになったらどうするのだろうか。

 もとの話題に戻るが、今回の文言の追加は、入試成績開示に関連してとられた処置であるようだ。このことで一番問題となるのは、学科試験では優秀な成績をおさめたにも関わらず面接で不合格になった受験生がその結果をどう受け止めるかということだろう。面接で不合格になるということは極言すれば
あなたはたしかに学科では良い成績をおさめましたが、医師としての人間性や創造性には致命的な欠陥があり、大学入学後の教育によってもそれを改善することは困難です
という「人間失格」宣告を出したのと同じことになる。もちろん入試の基本は「自分の大学にふさわしい学生を入れる」ことにあるが、これは「ふさわしくない受験生がどうなろうと知ったことではない」という居直りにもつながる。個別の大学レベルではそれで良しとしても、社会全体では、不合格となった受験生の将来にも気を配る必要が出てくる。そういう意味では、私が繰り返し強調しているように、大学入試の基本は「「質をともなった努力」をどう公正に評価するか」でなければならないと思う。評価対象は、学科試験ばかりでなく、ボランティア活動における努力、TVチャンピオンで取り上げられるような各種技能であってもよいのだが、とにかく、努力で形成できない「人間性」のようなものを評価対象に含めることは困る。そういう「人間性重視」の入試が全国の大学に広まることは、高校生から努力目標を奪い、「どうせ、頑張ったって人間性の無い自分はダメだ」、「あんなものは運次第」といった投げやりな風潮をもたらす恐れがあることを警告しておきたい。