じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
半田山中腹のイエローバンド。林道沿いに黄葉する落葉樹が植えられているため、この時期に限って黄色い横縞がくっきりと現れる。もっとスケールの大きいイエローバンドは、エベレストにあり。 |
【思ったこと】 _21114(木)[教育]戦後教育の終焉と日本型高等教育のゆくえ(6)市場原理、競争原理、少子化 昨日の日記の続き。今回は「市場原理、競争原理、少子化」に関して思ったことを詳しく述べてみたい。 11/11の日記に記したように、研究集会では 市場原理が大学教育に持ち込まれるということは「教育者も学生もそれぞれ利己的経済主体と見なす」という前提を認めることであり、その原理に基づく改革はといった変化をもたらすことになると指摘された。 このうちの2.は、方向を誤ると、「オモロイ」だけが取り柄のタレント教授や楽勝科目を生み出す恐れがある。もっとも、学生としても応分な負担を強いられ、かつ、「大学を卒業した事実」ではなく「大学で身につけた内容」が問われるようになれば、ラクラクと単位をとって遊びほうけるようなことはできない。結果的に、学生自身が質の高い授業を求めていく可能性もある。 それから、よく言われる「競争原理」と「市場原理」とは根本的に区別されなければならない。例えばアマチュアスポーツや基礎研究でも競争原理は働くが、決して賞金目当てで争われるわけでもない。大学教育に競争的環境を持ち込むことは、必ずしも市場原理に支配されるわけではないし市場原理の弊害がダイレクトに生じるわけでもない。 さらに、こちらの論考でも指摘したように、じつは「競争原理」と言われるものは単独の原理ではない。いくつかの行動随伴性が、それぞれの競争的環境の中で複合的に働き、時としては「質の向上」を、また時には「足の引っ張り合い」をもたらす。「競争原理」が個人の行動や集団の活動をしばしば高めるのは、「〜すれば現状が維持される。〜しないと現状が失われる。」という「好子消失阻止」や、「〜すれば平穏。〜しなければ破滅」という「嫌子出現阻止」の随伴性が有効に働くためである。大井氏から報告されたニュージーランドの事例は大いに参考になるものではあるが、それをもって、市場原理の導入は悪いということにはならないし、まして、競争的環境が悪いということにもならないと思う。 ところで、www.ac-net.orgの論考によれば、市場原理の功罪を論じるには、開放系か閉鎖系かという点にも十分な注意をはらう必要がある。 もともと、「欲するものを追求する競争を行い、国家による干渉を最小に抑えるならば、社会全体として最大の利益が生ずるという期待」は、新大陸に移民してきた白人たちが描いた期待であり、
しかし、この点からみて、今回の研究集会では「少子化」との関連づけがあまりにも少なかったように思う(このことは、2日目午前の質疑で、私自身から指摘させていただいた)。今回の各種報告は、どうも、入学者数あるいは受験者数が安定的に確保されるという前提のもとで議論されているような気がしてならなかった。少子化が進めば、まず、定員割れの大学が生じる。経営危機に陥った大学は何とかして学生を確保しようと、立地条件に見合った個性化をめざすだろう。また、何とか定員を満たせたとしても、学力の低下を補うための新たな授業科目や指導方法の改善が求められる。そういう点では、理念的な改革議論がどうあれ、第三者評価や適格認定がどうあれ、個々の大学は、生き残りをかけて質的向上に取り組まざるを得ない状況にあると言えよう。 フロアからの発言にもあったが、こうした競争的環境のもとでは何よりも「学習者の視点」が大切ではないかと思う。ある意味では大学の棲み分けなどどうでもよいことだ。倒産する大学が出てもかまわないと思う。どっちにしても大学は製造業ではないので、コスト削減だけですべてを乗り切るわけにはいかない。入学者あっての大学であり、そのカギは個性化と質的向上にある。 余談だが、紅葉の進む半田山(上の写真参照)を眺めていると、閉鎖系の中でもいかに競争があり、多様性による適応と持続可能な環境が維持されているのかがよく分かる。あそこに生えている木々は、みな競争的環境のもとで必死に子孫を増やそうとしているのだろう。しかしそれは、単一種の勝利をもたらしてはいない。ちゃんと多様性が実現されているのだ。これからの大学も、ああいう木々のようになるに違いない。 |