じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
博多のcanal city近くの那珂川河岸。canal city自体は美しい所だったが、周辺はゴミだらけでウンザリした。第一印象は「ゴミの多い町」。ついでながら、雨が上がった2/16午前には、各所にビニール傘が捨てられているのを目撃。傘というのは雨がやんだら捨てるものなのか。 |
【ちょっと思ったこと】
5万円のハイウェイカード、何とか買いだめ 2/5の日記に書いたように、5万円のハイウェイカードの販売終了があと10日余りに迫ってきた。我が家では年間の高速道路利用合計はせいぜい7〜8万円に過ぎないが、息子が岡山県以外の大学に行くことになれば来年3月以降に引越などで利用頻度が増える可能性もある。といって、無制限に買いだめするほどの資金も無い。いろいろ思案の末、手持ちのカード残4万8000円のほかに、5万円カード2枚を買いだめしておくことに決めた。 とりあえず町中の取り扱い店あたってみたが、すでに売り切れ&販売終了の店が続出しており、やっと手に入れたのは、岡山市内の某コンビニと地域生協の店。地域生協のほうは、私が買い求めたのが最後の1枚であると言っていた。 これらのカード、来年3月以降に1万円券に引き替える時には「真贋鑑定」をするという。万が一偽物を掴まされたらかなわんと思い領収書までもらっておいたが、いくら立派な領収書があっても、カードと領収書を一対一に結びつけられるような証拠はどこにもない。偽物ですと言われた時に、どこで責任をとってくれるのか、ちょっと不安になる。 それにしてもこのカード、月末が近づくにつれて、オイルショック当時のトイレットパーパーのように買いだめパニックが起こるんだろうか。ドライバーたちがみなハイカの買いだめに走ることによる「ハイカ・デフレ」なんていうのは起こらないもんだろうか。残りの10日余りが気になる。 跪く車内販売員 博多からの帰りに乗った「ひかり号」の車内で、車内販売員の女性がお客に話しかける時、わざわざ通路にしゃがんで膝をついて乗客より低い位置から弁当の注文を受けていることに気づいた。その女性は、お金を受け取る際にもしゃがんでいた。 お客の前でしゃがむというのは、町中のレストランでもたまに見かける。私のアパートの近くでは、王将が同じことをやっていた。お客のほうとしては、そこまで丁寧に応対されると少し度が過ぎるのでは、と感じることもある。もし会社が従業員に強制しているとしたら人権問題にならないのだろうかと、余計な心配までしてしまう。 余談だが、小さい子どもに接する時には、何はともあれ、しゃがんで同じ高さの目線で相手をするのがよいとされている。見知らぬ犬と仲良しになりたい時も同様だ。立ったまま犬を撫でようとすると犬のほうが警戒して、なかなか寄って来ない。ま、新幹線のお客は小さい子どもでも犬でもないんだから、仕事がしやすいように立ったまま品物やお金の受け渡しをすればエエと思うんだが、どんなもんだろうか。 |
【思ったこと】 _30216(日)[心理]日本健康支援学会(2)QOLとHRQOL/質とは量に換算できないこと 昨日に続いて、大会1日目の午後に行われた東京学芸大・朝倉氏による ●QOLの概念と評価 という特別講演の感想。 朝倉氏によれば、QOL概念には、医療資源の適正な配分と、医療を患者中心に転換するという点で大きな意義がある。しかし、この概念はあまりにも広すぎ保健、医療の枠を超えている。そこで、新たにHRQOL(Health-Related Quality Of Life)という概念が登場することになった。しかしそれでもなお、その定義を巡っていろいろな議論があるようだ。私が記憶に残った点とそれぞれに対する私の感想を記しておくと、
講演の終わりのほうでは、Psychometricな方法やHRQOLの尺度開発についての説明があった。一般的には 主成分分析→探索的因子分析→下位尺度ごとの主成分分析→確認的因子分析 という手法がとられ、最近では共分散構造モデルがよく用いられるという。このあたりは、心理学の研究とも似ているようだ。 もっともこういう手法を取り入れるということは、すでに、Idiographic approachを除外しているとも言える。また、調査項目に最初から抜け落ちている項目があれば因子そのものもゆがむであろうし(※)、心理学の卒論などでは、研究者が主観的に因子に「命名」することで、命名された言葉が内包する日常素朴イメージが説明概念として一人歩きする恐れが大いにある。 [※2/17追記] 最後に、HRQOL評価尺度の問題点として朝倉氏は
このうち1.は、おそらく自殺や安楽死に関係してくるのだろう。自殺する直前の状態というのは、たぶんQOLがマイナス値の状態である。これを「死」というQOLゼロの状態に引き上げるというなら起こっても不思議ではない。もっとも、末期癌の苦しみをHRQOLマイナスと評価してしまうと、安楽死を正当化することにもつながりそうだ。慎重な検討が必要だろう。 3.は、疾患や障害の受容という点からむしろ、積極的に考慮すべきではないかと思う。 QOLあるいはHRQOL尺度について私が思うのは、しょせん「Quality=質」を扱う以上、どうあがいたところで、数量化には限界があるということだ。個人本位で考えるならば、数直線上で比較されるような数量化ではなく、むしろ多面的なチェックリスト、あるいはそれを簡約記述できるようなレーダーチャートのほうが正確であろうと思う。 数量化、特に代表値や総合指標の算出を必要とするのは、情報を要約記述しなければならないという何らかの要請(ニーズ)があるからに他ならない。限られた資源をどう重点的に配分するかという行政的な判断、あるいは効果測定、適格認定を行う場合などには、どうしても、客観的で包括的で比較可能な数値が必要になる。また、主観的な評価と数値との不一致の原因を解明することで新たな要因が同定できるという探索的意義もある。しかしそれらは、本質を100%表すものではない。 したがって、もし数量化の研究を進めることでQOLの本質が解明されるなどという期待をいだくことがあれば、それは間違いであると私は思う。むしろ、多様なQOLなりHRQOLを併存させ、それぞれがどういう要請(ニーズ)に基づいて作成され活用されるものであるのかを明確にし、使い分けていくことのほうが生産的であろう。次回に続く。 |