じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 巨大輪朝顔とブーゲンビリア。朝顔は種から育てたもので、今が最盛期。ブーゲンビリアは7/20の日記でも紹介した通りで、処分品として購入後、2度目の花を咲かせている。


7月25日(日)

【ちょっと思ったこと】

今年も「水神祭は雨に降られない」

 25日は全国的に不安定な天気となった。北日本では朝から高温となり、アメダス気温Top10によれば、午前9時には、なんと、青森県三沢(32.4度)、青森県五所川原(32.3)、青森県十和田(32.0)、青森県三戸(32.0)、北海道北見(31.9)といういうように北日本の観測点がTop10の半分を占めた。また、長野県や北陸地方では午後になって激しい雷雨に見舞われた。

 岡山市内でも昼前から雷鳴がとどろき、レーダーでは、すぐ近くまで赤色表示の雲の固まりが近づく。慌てて、洗濯物を取り込んだりした。

 ところが、結局、実際には車のフロントグラスに数滴の雨が当たるのを確認した程度で、1ミリの雨も降らず。岡山市のすぐ北の福渡で37.5ミリ、新見で42.5ミリ、すぐ南の高松市で39ミリを記録したのとは、エライ違いとなった。

 大学構内の花壇では何種類かの多年草が干からびており、できれば一雨欲しいところだが、反面、この日は、津島本町地区の「水神祭」が行われた日でもあった。座主川の一角に、小学生たちが作った行灯を並べ、夜店など出して楽しむ町内会行事である。もし途中で大雨が降れば、引き込みの電線はショート、行灯の半紙は破れてしまうところであったが、最後まで雨に濡れることは無かったようだ。

 4〜5年前、まだ我が家の子どもが行灯を出展していた頃にも大雨が心配されたことがあったが、地元の長老が「水神祭が雨に降られたことは一度もない」ときっぱり言い切り、そのまま降られずに済んだことがあった。今回、巨大な雷雲に囲まれながら1ミリも降られなかったことで、その言い伝えはますます確信度を増すことになりそう。

【思ったこと】
_40725(日)[心理]「活きる」ための心理学(13)生きがいや働きがいの必要条件

 自治体主催の生涯学習講座の4回目(7月24日実施)。最終回の講義テーマは「働きがい、生きがいの条件」、概要は
働くことが生きがいに結びにつきにくい理由をさぐり、成果主義、生涯現役主義、高齢者のレジャーと生きがいの問題などを考えます。
というものであった。講義の前半では、スキナーや内山節氏の文献を引用しながら、働きがいを阻害する要因について考察、後半では競争原理、成果主義、受験勉強、小学校運動会などに言及し、さらに、高齢者の生きがいの特徴について話を進めた。これらは、教養科目「能動と生きがい」で話している内容をコンパクトにまとめたものであった。

 さて、私自身が推奨する「能動主義」の立場から言えば、生きがいや働きがいの必要条件としては
  • 「能動」の機会を保証すること
  • 「能動」に成果が伴うような機会を保証すること(障害あるいは高齢化などによって必要が生じた時は、適切な成果が伴うようにサポートすること)
  • 第三者によって与えられる結果ではなく、行動内在的な成果を最終目標とすること(但し、過渡的には、結果を人為的に付加することも必要。また、コミュニティ間の交流も大切)
という3点を挙げることができる。但し、これらは必要条件にすぎず、3点を揃えればかならず生きがいや働きがいが得られるというわけではない。とはいっても必要条件を欠く限りにおいては、それらが得られないことは確かだ。

 次に、「次回までに読んでおいてください」という形で7/17に配布したスキナーの『罰無き社会』の佐藤方哉訳(行動分析学研究、1990, 5)から、特に留意すべき点を抜き出して解説した。以下、多少長くなるが、その部分を抜き書きしておく。一部、文の始まり部分を省略。また、【 】部分は長谷川による補足。
  1. 企業において仕事を駆り立ててているのも実は罰的なものです。賃金は報酬の一種と考えられていますが、実際はそうではありません。賃金労働者は週給で生活していますが、解雇されれば生計はたちません。月曜日の朝働くのは週末に支払らわれる賃金のためではなく、働かなければ解雇されるからなのです。ほとんどの組織のもとでは、労働者は何かのために働くのではなく、何かを失なうのを避けるために働くのです。
  2. 【教育場面における】「無干渉主義」は命取りになりかねないほど危険です。教師は、生徒たちが良くない行動をしているときでなく、良い行動をしているときにこそ注意を向けるべきなのです。教師が正の強化を用いる機会を逃さないようになったとき、教室において劇的な変化が生じます。
  3. 学校で身につけた行動はいずれは日々の生活において自然な随伴性によって強化されるようになるべきなのです。日常の自然な随伴性は教育効果があがるような形で教室に持ち込むことは容易ではありません。この点にジョン・デューイの教育哲学における大いなる誤解がありました。我々は実生活のために教育しなければならないのですが、実生活そのものを効果的に学校のなかに持ち込むことはできません。
     教室内での随伴性はある程度は仕組まれたものにならざるをえませんが、うまく仕組まれたならば生徒が後におかれる日常の自然な随伴性のなかで誰にでも有利に働く行動をうみだすことができましょう。
  4. 教室には自然な強化子で使えるものが一つあります。ヒトという種−−−−−おそらくすべての種−−−−−-の重要な遺伝的特性の一つに、成功するということ自体が強化的であるということがあります。なにかを押してそれが動くと押すことは強化されます。問題に正答を見いだすということは非常に強化的な出来事に違いありません。
  5. 産業革命は労働者の働きがいに大きな変化をもたらしました。多くの自然な強化の随伴性が失われました。長い目でみれば、それ以前の職人たちもおそらく金銭や財産のために働いたのでしょうが、仕事のどの段階においてもすることの一つ一つがなんらかの直接の結果によって強化されていました。ところが産業革命以後は、仕事が細分化されその一つ一つが別の人たちに割り当てられるようになったがために、金銭以外の強化子はなにもなくなってしまいました。行動のもたらす自然な結果というものがなくなってしまったのです。マルクスの言葉をかりれば、労働者はその生産物から疎外されてしまったのです。これに加え、その制度自体が罰的なものになってしまいました。私がさきほど述べたように、労働者たちは賃金のために働くのではなく、解雇されて生計がたたなくなることをおそれて働くようになってしまったのです。
  6. 生きるに必要なものを【何も働きかけをしなくても受身的に】与えられている人は、実はもっとも基本的な権利を否定されているのです。このような人は、強化随伴性を剥取られることによって、人間として抹殺されているのです。同様のことが福祉の対象となっている人にも起こっています。思いやりのある社会は、もちろん、援助が必要で自分ではそれができない人々を援助するでしょうが、自分でできる人々までも援助するのは大きな誤りです。精神病あるいは精神遅滞であっても基本的には自分自身で生計を立てることのできる者は、無償で生活が保証されてはいるものの行動の結果が強化されることがないためによい行動が乏しく、それゆえに罰的に扱われがちな者よりも、はるかに幸せで貴いのです。人権を守るのだと主張している人たちはすべての権利のなかで最大の権利を見逃しています−−−−−それは強化への権利です。
  7. 罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、我々はしなければならないことをするといいます。そして、そういったときには幸福であることはまずありません。その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、我々はしたいことをするといいます。そして、幸福を感じます。幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。裕福な人々は、良いものに囲まれていても、それがべつの良いものによっ強化されるように行動させることがないならぱけっして幸福ではないことにすぐに気つくのです。
 スキナーの主張を受け入れるならば、先に述べた、生きがいや働きがいの3つの必要条件がいかに大切なものであるかが理解できる。次回に続く。