じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] ヤツデの花。暖冬傾向が続いたせいだろうか、ヤツデの花が例年より派手に咲いているように見える。ヤツデは、私が子どもの頃から馴染みの植物であり、葉っぱを天狗のうちわに見立てて遊んだものだ。昭和30年代の写真日記の中のこの写真の右端にもちゃんと写っている。

ヤツデの容姿は室内用観葉植物として十分に資格を備えているように思えるが、少々嫌なニオイを発する。花に集まってくるのはギンバエやショウジョウバエばかりだ。そのことを避けるために、庭のヤツデに花が咲いたらさっさと切り取ってしまう人もいる。


12月23日(木)

【ちょっと思ったこと】

液晶ディスプレイで困る人

 少し前、学生からの要望により、知覚関係の実験用にパソコン一式を整備した。その際に困ったのがディスプレイであった。従来のブラウン管型ディスプレイに替わって、最近では、液晶型ばかりが出回るようになった。ところが、この液晶ディスプレイというのは、視線の角度がちょっとでも変わると見え方が著しく変わってくる。知覚の実験には向かないのだそうだ。

 ということもあって、ブラウン管型のディスプレイ(色空間の国際規格である“sRGB”に対応したもの)を探してみたが、すでに製造中止、在庫切れで入手できなかった。ノートパソコンの液晶に比べると、デスクトップパソコン用の単体液晶ディスプレイのほうは、あまり角度差が感じられないようにも思うのだが、実験用となれば話は別だ。といって、心理学実験専用の刺激提示装置ではカネがかかりすぎる。

 液晶ディスプレイ普及でもう1つ困るのは、盗難防止策である。共同計算室の鍵がうっかり開いたままになっていたとしても、重くてかさばる21インチのブラウン管ディスプレイが盗まれることはまずありえない。しかし液晶ディスプレイは大きめのカバンに入れて容易に運ぶことができる。そのこともあって、現時点では共同計算室には一台も設置していないのだが、機種更新の際にはさらに厳重な防犯対策をとる必要がありそうだ。

 余談だが12月21日の朝日新聞によれば、ソニーがプラズマディスプレイの製造・販売を大幅に縮小し2005年にも撤退することを検討していることが20日わかったという。46型液晶テレビの発売でプラズマの領域をカバーできるようになったほか、今後は、欧米で人気の背面投射型(リアプロ)テレビに経営資源を集中していくということらしい。

 背面投射型(リアプロ)テレビというのは、私のところのLL教室に設置されている大型テレビではないかと思う。コストはかかったが、写りはなかなかいい。

 いっぽう一般講義室では手軽に持ち運べるビデオプロジェクターが普及しているが、短い休み時間の間にいちいちスクリーンを張って、画像調整をするのは結構くたびれる。一般家庭でも、わざわざスクリーンを張ってミニシアターを楽しむ人は少ないだろう。いずれにせよ知覚実験には向かない。

【思ったこと】
_41223(木)[心理]血液型差別番組を考える(22)「血液型」論議、2004年のまとめ

 昨日の日記に
 同じことを何度も繰り返すのはそろそろくたびれてきた。ということで、「血液型」の話題は、今年はこれで終了。
と書いたあと、某Web日記のリンクを通じて

血液型性格判断とたたかう

というサイトがあることを初めて知った(油小路ニュー中猫屋の一部)。まことにごもっともな内容であると思う。

 このことに元気づけられてもう1回分、ここで2004年版の論点をまとめておきたいと思う。
  1. 「血液型」論議は、
    • レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
    • レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
    • レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性
    という3つのレベルそれぞれにおいて議論すべきである。

  2. 昨今の「血液型」番組は、レベル3に関わる問題を含んでいる。したがって「血液型性格判断」に科学的根拠があるかないか、というのはここでは問題ではない。100歩譲って、いや、1万歩譲って、血液型性格判断に科学的根拠があったとしても、血液型に基づいて他人を評価したり、適性や相性を話題として取り上げるべきではない。

  3. しかし、「血液型」は差別だから止めよう、というだけでは問題は解消しない。差別・偏見の危険性を訴えただけでは、レベル2の段階で「血液型ステレオタイプ(=テレビ番組などの一方的な情報によって固定観念を受け付けられてしまうこと)」に陥っている人たちを心の底から納得させることはできないからだ(10月13日の日記参照)。

  4. したがって、血液型クリティカルシンキングの立場(10月14日の日記参照)から
    • 「血液型と性格には関係があるかないか」といった二者択一型の議論(=いわゆる「全称判断」)は、問題設定自体が誤りであること、未知の現象に向かう時の真の科学的態度はどうあるべきかについてしっかり議論を行うこと。
    • 個人間の行動の差違を何でもかんでも血液型に結びつけて解釈しようという「血液型こだわり主義」を徹底的に批判し、行動の原因を多面的にとらえるためのクリティカルな目を養うこと。
    • 「血液型性格判断」喧伝(けんでん)者たちのダブルスタンダード(「血液型と性格は関係が無い」ことは実証されていない(←全称判断なので実証不可能)などといかにも科学者っぽい議論をふっかけながら、「血液型による違いがあった」という事例は無批判に受け入れてしまうこと)を徹底的に叩くこと。
    • レベル2における行動の差違を、医学生理学上の知見(レベル1の議論)と結びつけて誇大解釈してしまうことの「こじつけ」、論理の飛躍を徹底的に叩くこと。
    • テレビ番組で紹介される「実験」のいい加減さ、ヤラセ、都合の良い事例ばかりの寄せ集めなどについて、追試可能性(再現可能性)の保証を求めていくこと(11月28日の日記の「蚊にさされやすい血液型の項参照)。
    • 「検証」を標榜しながら、曖昧さを追求されると「これは遊びだ」、「楽しんでやっているだけ」、「例外もあります」などといって逃げる、局側の卑怯な態度や言い訳を批判し社会的責任を追求していくこと。
    などが必要。
 以上が2005年に向けた宿題になるのではないかと思っている。年末年始に、「血液型」番組で不快な思いをされた方、差別を受けた方がおられましたら、年明けに情報をお寄せください。