じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
ムスカリ。植えっぱなしでもよく咲く。理由は不明だが、デジカメのピントがよく合う花でもある。 |
【ちょっと思ったこと】
紀要執筆モードから滅私奉公モードへ 年度末に雑務が重なってなかなか執筆できなかった紀要論文を締め切り日の午前中に提出(↓の「思ったこと」参照)。午後からは今年度最初の授業が始まった。 今年度前期は諸般の事情により、毎日最低1コマ以上の授業を担当することになった。コマの数だけならば、オーバードクター時代に週13コマを受け持ったことがあったが、その時は同じ内容(統計学やパソコン実習)を複数クラスで教えていたため、体力と健康管理が第一であった。いっぽう、今年度前期の場合は、それぞれの授業がすべて異なる内容となっており、個別に準備をしなければならない。これとは別に大学院生への研究指導が必要。健康管理とともに、頭脳の分業切り替えが求められそう。「滅私奉公」というキーワードで過去日記を検索したところ、2003年4月10日の日記に同じようなことが書かれてあった。今年もまた滅私奉公の日々となりそう。 |
【思ったこと】 _50411(月)[心理]これでおさらばしたい「血液型性格判断」 原則として年2回、紀要論文を書いているが(ネット上公開論文のページ参照)、この春のテーマでは、昨今の情勢に鑑み「血液型性格判断」を取り上げた。 この問題について私自身が最初に発表したのが1985年であったことから、当初は、「血液型性格判断の二十年」とでも題して論点を整理しようかと企図していたが、年度末の報告書作成や雑務が重なり、そのような取り組みを行うことは到底不可能であると断念、結局、私の血液型性格判断資料集に掲載してある、2004年から2005年2月までのWeb日記の関連記事をまとめ直したという程度の内容に留まった。とはいえ、Web日記もちりも積もれば山となるものだ。まとめ直しただけでも2万1524文字、脚注を入れると2万5061文字にふくれあがってしまった。 ちなみに、私自身は「血液型性格判断」にそれほど関心があるわけではない。人間行動を多様な視点から理解すべきであるというのが私の主張であって、血液型別の違いなどというのは、取るに足らないどうでもよいことの1つにすぎない。純粋に学術上の関心から「血液型」に真摯に取り組む方々、あるいは、ステレオタイプ形成、ブームといった別の観点からこの社会現象を研究している方々の御努力には敬意を表するが、私個人としては、率直に言って、この問題に関わるのは時間の無駄。今回の紀要論文をもって、できればおさらばしたいところである。 2004年以降にこの問題を再び取り上げたのは、言うまでもなく、「血液型」関連番組が次々と放送されるようになったためである。 血液型による違いを強調した番組は、TBS系「脳力探険!ホムクル!!」、関西テレビの「発掘!あるある大事典2」、 TBS系の「学校へこう!」、テレビ朝日系の「決定!これが日本のベスト」、テレビ東京系「月曜エンタぁテイメント」、、日本テレビ系の「おもいっきりテレビ」というように、ほとんどすべての民放キー局にわたっている。2004年4月以降に放送された番組の数は『AERA』(2005年1月24日)記事によれば50本以上、『週刊文春』(2005年2月10日)記事では70本以上にのぼるという。 「放送倫理・番組向上機構(BPO)」が2004年12月8日に「血液型によって人間の性格が規定されるという見方を助長しないよう」放送各局へ要望した後も、
放送各局が、BPOの要望に従って「血液型」番組を自粛すれば、今回の「ブーム」はひとまず区切りをつけることになる。また、「生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性」という人権意識が定着すれば、他者の評価目的に血液型ステレオタイプが持ち出されることも減っていくものと思われる。 しかし、単に「血液型」は偏見・差別だから止めよう、というだけでは問題は解消しない。差別・偏見の危険性を訴えただけでは、「血液型ステレオタイプ(=テレビ番組などの一方的な情報によって固定観念を受け付けられてしまうこと)」に陥っている人たちを心の底から納得させることはできず、場合によっては、学問に対する弾圧であると受け止められかねない恐れがある。 ここで留意しなければならないのは、「血液型性格判断」は、必ずしも、学術研究で実証されたという理由で信じられているのではないという点である。個人体験や主観だけに基づいて「当たっている」と判断し、その「信念」に一致する事例だけを肯定的に受け入れようとする。時たま、脳生理学者などが肯定的にコメントすれば「やっぱり正しかったのだ」と得心する。その一方、 血液型による差は無かった(もしくは「それほど顕著ではない」)というような報告を耳にしても、「今回は血液型の影響は検出できないほど微小であった。外に現れない程度であっても何かしら影響を及ぼしている」として、固定観念を改めようとしない。こういう態度を持ち続ける人々に対しては、純粋な学術論争ではなく、まずは、批判的思考(クリティカルシンキング)への理解を求め、多面的な見方を促すという方策が必要となってくる。今回の紀要論文もそのことを強調する趣旨で執筆した。 ところで、「NPO法人 血液型人間科学研究センター」の能見俊賢氏は2005年2月10日発行の『週刊文春』の取材に対して以下のような考えを表明しておられる【長谷川による抜粋、言及箇所を明確にするため箇条書き化した】。批判的思考という視点から「血液型」論議をとらえる上で重要なポイントを含んでいると思われるので、最後に、これらに対してコメントを述べさせていただくことにしよう。 (1)人の性格は、千人いれば千通り。四分類できるなど、少なくとも私は一度も言及したことはありません。また、人と人との相性は努力次第で、絶対的相性も存在しません。一部でセンセーショナルに性格を決め付けたり、相性の良し悪しを騒ぎ立てる傾向があるのには胸が痛みます。まず(1)であるが、純粋に学術研究、つまり上述のレベル1の形で研究が行われる限りにおいては、人の性格や相性を4分類で済ますなどという方向に向かうはずがないことは当然のことである。なんでもかんでも「血液型と関係があるかないか」に結びつけてしまうというのでは、そもそも科学的態度とは言えない。 しかし、血液型をひとたび日常生活に役立つツールとして利用しようとすれば「X型にはYという特徴が多い」というように何らかの傾向に言及せざるをえない。「これだけ短期間に広く社会に浸透したのは、実用的で有効であればこそです。血液型性格分析が既にブームを通り越し、社会に定着している」というのは、まさにその決めつけが行われているという意味に他ならない。いくらテレビ局が「個人差があります」「例外もあります」というように但し書きをつけたとしても、傾向に言及する以上は、そこから逃れることはできない。 次に「(4)血液型の存在が分かったのは、わずか百年ほど前。分析も始まったばかりで、まだまだ未知数です。僅かな年月で急成長した分野だけに、...」という部分についてであるが、学術研究における100年の年月は決して「始まったばかり」とは言い難い。血液型の存在が分かったのが新しいとしても、そのことを気質や行動傾向と関連づけて分析するツールは、心理学関連分野の中で十分に確立している。行動分析学の創始者のスキナーが「The behavior of organisms: An experimental analysis.」という書物を著したのは1938年であり、古川竹二の『血液型と気質』が刊行された1932年よりも後のことであるが、行動分析学のほうは今では国際的な学会組織に成長している。 では、「血液型」研究には何が欠けているのであろうか。一番の理由は、「科学」を標榜しながらも、それが、反証可能な形で理論として提示されていないことにある。反証できる形で主張されていなければ、もとより「対抗できるだけの反論データや客観的な観察の積み重ね」などを揃えることはできないのである。結局のところ、「血液型の存在が分かったのは、わずか50年ほど前」、「血液型の存在が分かったのは、わずか100年ほど前」、「 血液型の存在が分かったのは、わずか150年ほど前」...というように、何年経っても、「まだまだ未知数です。僅かな年月で急成長した分野だけに...」と弁明を続けていく宿命にある。 最後に「どんな学問も、最初はわからないことだらけ。丹念に事例を集め、仮説を投げかけ、それを裏付ける……の繰り返しが基本です」というのはまさにその通りである。いや、本当にそう思っておられるならその通りにやっていただきたいのだ。商業主義や娯楽と切り離し、偏見や差別を排除した形で、純粋な学術研究として「血液型性格判断」が発展していくことを願ってやまない。 |