じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
11月21日(月)は大学祭期間の休講日であったため、代休日を設定して、県北の岡山県立森林公園まで夫婦で行ってきた。朝9時すぎに岡山発、昼食後12時から、六本杉→根曲がり杉→奥ぶなの平→
すずのこ平→もみじ平→千軒平→もみじ滝のコース(地図参照)を歩いて15時半頃に下山。奥津の温泉に入って19時半に岡山に戻った。日帰りハイキングとしてはほどよい時間であった。
写真左は、すずのこ平(1080m)から眺める大山、写真中は大山の拡大図、写真右は、千軒平(1090m)に登る急坂。写真にあるように、1000m以上の尾根筋はすでに雪が積もっていた。 |
【思ったこと】 _51121(月)[心理]加齢の空しさにどう立ち向かうか(2)空しさの起源 昨日の日記の続き。 これまで各所で述べているように、私は、スキナーの主張: 幸福とは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することであるを、生きがいの前提であると考えている。要するに、多様な能動的行動が発せられる機会が保障され、かつその能動的行動が適切に強化されているという状態を保つことが、幸福な状態を保つための必要条件であるということだ。 しかし、これは必要条件であって、十分条件を満たすものではない。例えば、毎日パチンコ屋に通って、そこそこの成果を上げることは、「パチンコで遊ぶ→景品がもらえる」という点で上記の必要条件を満たしてはいるが、これだけで充実した人生を送っているとは考えにくい。 つまり、人間の場合は、単純に「行動→好子出現による強化」を反復するだけでは不十分であり、ある程度の時間の流れの中で
ちなみに、このような人生観は、100パーセント個人主義的な人生観から出発している。但し、好子(コウシ)として伴う結果部分、あるいは達成や成果といった部分には社会的貢献も含まれるので、かならずしも利己的人生観になるとは言えない。なお、個人主義的人生観に代わる人生観の可能性については、社会構成主義との関連で、別の連載として述べる予定である。 さて、昨日も述べたように、歳を取ってくると、身体機能が低下し、時には病床に臥し、肉親、配偶者、友人などとの別れに直面し、いずれは自分自身が死を迎えることになる。そういう「縮小再生産」のプロセスに入ってしまうと、上に述べたような発展は、どうやっても実現できなくなる。いくらお金を貯めても、保険で保障を充実しても、失い、滅びていくプロセスを食い止めることはできない。それに気づいた時に、「加齢の空しさ」を感じ始めるのではないかと思う。 ではどうすればよいのか。個人主義的な人生観を保持する限りにおいては、本質的な解決は不可能であろうというのが私の現時点での結論である。しかし、何とかして、空しさを最低限に抑える手だてというのは考えられる。昨日も述べたように、加齢の空しさを解決するには個人主義的人生観を一部修正して、
このうち1.は、あらゆる欲を捨てるということである。欲を捨てれば、失って困るものは何も無いから空しさも消える。しかし、これは相当の修行が必要であるし、すべての欲を捨てれば生きることへ執着も無くなり、そのまま即身成仏してしまうようにも思える。 2.は、じつは2通りの意味がある。1つは、たぶんいろんな宗教で言われていることと似た「悟り」に相当するものであり、個人主義的な人生観を「私人も公人も無い、世界と一体となった生き方」に切り替えることである。こうすれば、自分が死滅しても失って困ることは何もない。もう1つは俗物が考える天国観である。これは、個人主義を保持したまま、「良いことをして天国に行って楽をしたい」と考えることだ。 以上述べた1.と2.は、個人主義的人生を歩んできた私にはなかなかできることではない。そこで、せめて3.のあたりで「空しさ」を慰めることはできないものだろうかと考えることになる。 次回に続く。 |