じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
岡山では6月に入っても晴天の日が多く、最高気温30度以上の真夏日は20日間のうちで8回を数えている。写真は16日早朝の青空の様子。6月は周囲の光がまぶしく反射し、そのぶん、青のコントラストが引き立って見える。 |
【思ったこと】 _60620(火)[一般]内部調整と外部調整のせめぎ合い だいぶ昔の話題になるが、2000年9月25日の日記で ●システムの内部調整と外部調整 について取り上げたことがあった。要するに、システム、あるいは1つの組織なり社会なりで問題が起こった時には
この話題は、2004年2月3日の日記でも再度取り上げた。節分の豆まきにちなんんだ内容であり、
昨今起こっているいろいろな社会問題について、提案されている解決方法が内部調整にあたるのか、外部調整にあたるのかという視点を持つことは大切であると思う。 2月3日の日記にも書いたように、日本では伝統的に内部調整により改善をはかろうとしてきた。「鬼は外」は欧米や古代中国の発想であるように思う。 企業の不祥事があった時に、社長が引責辞任をするというのは外部調整、いっぽう、社長にとどまったままで体制の改善につとめるというのは内部調整。プロ野球の各球団が、練習を通じて戦力アップにつとめるのは内部調整、トレードで補強をはかるのは外部調整である。 少し前まで、具体的には2001年9月11日の同時多発テロが起こるまでは、地球全体を1つのシステムと考え、多様性を尊重しながら内部調整を進めていこうという考えが優勢であったように思う。しかしあの事件のあとでアメリカがとった対応は、基本的には外部調整。つまり、自分たちの社会にとって有害な要素はすべて排除、抹殺していくという考え方である。 7年前に山口県光市で母子が殺害された事件の裁判で、最高裁判所は「犯行はきわめて悪質で、特別な理由がなければ死刑にするほかない」と指摘し、2審の無期懲役を取り消して審理のやり直しを命じたというが、死刑にすべきかどうかという問題も、社会全体の内部調整、外部調整という点から捉えてみる必要があるように思う。 死刑というのは、形の上では、社会という1つのシステムの中から有害分子を排除する手段であり、外部調整であるように見える。しかし、排除だけが目的であるならば、国外永久追放であっても、(今の日本ではそのような刑罰は無いが)社会との交渉を完全に遮断した終身刑あるいは島流しであっても効果は変わらない。 いっぽう、死刑を存続させることがそのシステム内の凶悪犯罪を抑止する効果を持っているならば内部調整の手段ということになる。 もう1つ、死刑を執行するということには、被害者やその遺族の「無念を晴らす」という、内部調整の機能がある。日本にはもともと、仇討ちを正当な行為と認める文化があったし、今でも、赤穂浪士の討ち入りは美談としてたびたびドラマ化されている。 死刑廃止か存続かの議論においても、内部調整か外部調整かという視点はぜひとも必要であると思う。 |