じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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9月27日の日の出。9月22日の日記の「秋分の日クイズ」に書いたように、岡山市では、9月27日は、日の出は午前5時55分、日の入りは午後5時55分であり、昼と夜の長さが同じになることに加えて、すべての「時」と「分」が「5」のゾロ目になるという珍しい日である(高松市なども同様)。但し、地平線近くに山や建物があるため、実際に太陽が見えてきたのは6時1分頃。ここに掲載した写真は6時2分頃に撮影。
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【ちょっと思ったこと】
安倍・新内閣のキャッチフレーズ 余談だが、26日に発足した安倍・新内閣のキャッチフレーズは ●活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」をつくる ということだそうだが、ちょっと言葉の数が多すぎではないかなあ。小泉政権の「ワンワード・ポリティックス」にはいろいろ批判があったが、あれはあれでコピーライティングに成功したという評価もあった。「あべ」という苗字はいろいろな漢字に変換できることから、いっそのこと、漢字を覚えてもらうこととの一石二鳥で「安心倍増内閣」で売り出せばいいものを、と思ったが、ネットで調べたら、「安心安全倍増」というのはどうやら、麻生太郎氏の総裁選向け政策で使われていたようだ。 キャッチフレーズはどうあれ、どにかく「安心」が「倍増」される世の中になってほしいものだ。 |
【思ったこと】 _60926(火)[心理]日本教育心理学会第48回総会(9)質的心理学教育の難しさ 準備委員会企画シンポジウム: ●学生は質的心理学の教育から何を得るか< の感想の続き。 話題提供の最後は、企画者でもあるT氏から、岡大文学部における実習プログラムの実例をふまえた話題提供があった。なおこの詳細は、 動きながら識る、関わりながら考える〜心理学における質的研究の実践〜 の207〜212頁に詳しく紹介されている。 もっとも、T氏が紹介されたのは、現在の4年次生までが受けた旧カリキュラムにおけるプログラムであった。その後岡大では、 ・学科別入試から学部一括入試へ ・履修コースの広域化 という改革が行われ、現在は「心理学履修コース」ではなく、「行動科学専修コース」の中の「心理学領域」としてのカリキュラムが組まれている(新・旧課程の違いについては、こちらに私見が書かれてあるので、興味のある方はお読みいただきたい)。 さて、こちらのほうにも述べたが、新カリキュラムのもとでは、卒業証書には「文学部行動科学専修コース卒業」と記されるだけで、心理学領域を学んだのか、社会学、文化人類学、地理学など他の領域を学んだのかを証明することができなくなった。そこで「大学において心理学又は心理学隣接諸科学を専攻し学士の学位を有する者」であることを証拠立てるために、認定心理士資格取得を推奨するようになった次第だが、その取得要件に適合させるてめに授業科目を整備する必要が出てきた。ここでは詳しい内容には立ち入らないが、とにかく、質的心理学教育のために費やされる時間は以前より削減せざるをえなくなったという事情が出てきている。 もう1つ、これはどこでもありがちなことだが、総合大学のようなところには、じつにいろんな考えを持った心理学教員が割拠しているのが普通である。その中には、「すべての質は量に還元できる(量に還元できない質は無い)」と断言している教員もいるらしいし、私が知っている心理学者の中にも「実験心理学でなければ科学ではない」と力説したり、1つの実験で有意差が確認されただけで「○○式の理論は科学的に実証された」と吹聴している人もいる。 従って、これらを受講する学生としては、ある授業では「AはBである」と教えられ、別の授業では「AはBであるという説はもう古い」と力説されることさえある。それだけに、各受講生のの主体的判断とクリティカルな思考の目が求められるのである。 もっとも、学生にとっては、偏った1つの立場のみを教え込まれることよりも、こういう多様な捉え方、方法論、手法を身につけ、自分自身の力で選択できるようになることのほうが、将来に役立つ部分がはるかに大きいようにも思える。 シンポ後半の指定討論では、まずMu氏が、「ローカリティ」、「インターローカリティ」、「ユニバーサリティ」をキーワードに、それぞれの話題提供者に質問をされていた。これに対して、話題提供者のお一人のO氏は、「ユニバーサリティにはローカルは見えない、ローカルな積み重ねがユニバーサリティにつながる」というようなことを答えておられた(←長谷川メモが一部判読不能のため不確か)。 私個人は、質的研究の基本的な視点には大いに共鳴するところがあるのだが、そのわりにハマりこむほどの域には達していない。その一番の理由は、これまで、「これは素晴らしい!」と唸るような質的研究に出逢ったことが無いという点にあるのではないかと思っている。上記と関連づけるならば、要するに、いろいろと聞かされている質的研究というのは、ローカリティが強すぎるのである。扱っている話題にもとより関心が無ければ、膨大な記述内容に目を通しても退屈になるだけだ。「NHKスペシャル」や、かつての「プロジェクトX」などのほうがよっぽど興味をひかれるし、感動も大きい。このあたりは、演出効果を重視するTV番組と、研究を標榜する質的研究の違いということになるのだろうが、とにかく、いくら質の高い「質的研究」であっても、取り扱う話題に関心がなければタダの分厚い報告書、かといって、そこから見出されるユニバーサリティはごく常識的な範囲にとどまる、というあたりが、私がハマらない理由になっているのではないかと思いつつある。 もうお一人の指定討論者であるMi氏は、 問いを立てると物の見方が変わってくる。 ということを言われた。また、質的研究を美味しい料理に例えて、「料理人」(=研究者)、「包丁」(=概念ツール)、素材という3条件が揃うことの重要性も指摘された。 このほか、フィールドに1時間出た時には、そのすぐあとでフィールドノーツ作成に2〜3時間をかけるべきであること、これを怠るとすっかり忘れてしまうというようなことを言われた。私自身はフィールドでは研究をしていないが、ここにあるように、講演やシンポを拝聴した時には必ずメモをとり、どんなに遅くても2週間以内にはWeb日記に記すことを心掛けている。Web日記の習慣が無く、かつ、何もメモをとらないで聴いていた人たちは、その時に得た情報や自分の感想をどのように将来に活かしているのだろうか、たぶん抜群に記憶力の良い人か、でなければ、その場限りの聞き流しに終わってしまう人か、どちらかであろう。 シンポの最後に、司会者のS氏が「自然科学が忘れていた、環境との関わりで人間を考えるという視点...」というようなことを言っておられたが、S氏に限らず、最近、臨床心理学者の口から「環境との関わりを重視」という言葉を聞くことが多くなったように思うのは気のせいだろうか。これらの研究者の間では、スキナーの『科学と人間行動』の視点はどう位置づけられているのだろうか...? 次回に続く。 |