じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
大学構内に再び出現した雪だるま。ちなみに、1月21日に出現した雪だるまのほうも、まだ小さな塊が残っていた。寒い日が続いていることの証拠。
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【思ったこと】 _80130(水)[心理]「しなければならないことをする」と「したいことをする」(2) 1月23日の日記の続き。 前回述べたように、スキナーは、「しなければならないことをする」と「したいことをする」の違いを行動随伴性の枠組みで明快に説明した。これはスキナーの最大の発見の1つと言ってもよいのではないかと思う。 要するに、「しなければならない」と「したい」は、それぞれの行動にもともと備わった性質ではない。どちらに属するのかは、行動がどのように強化されているのか、つまり随伴性のタイプによって規定されているのである。このうち、好子出現により強化されている行動は「したいからする」行動であり、嫌子消失や嫌子出現阻止、好子消失阻止の随伴性で強化されている行動は「しなければならない行動」であり、しばしば義務的な行動、あるいは罰的に統制された行動として受け止められる。 また、「したい」か「しなければならない」かは、決して「気持ちの持ち方次第」で決まるものではない。「したいか、しなければならないのかは、主観的な問題だ」などといくら自分に言い聞かせたとしても、随伴性を変えない限りは自己欺瞞に終わってしまう。「しなければならない」行動の長期的な目標や意義を「自覚」したり、日々の達成度を明示したりすることに効果があるのは、それらに、付加的な好子出現の随伴性の働きがあるからに他ならない。 さて、前回も述べたように、1つの行動は、通常、複数の行動随伴性の影響下にあり、100%「したい」行動とか、100%「しなければならない」というようなケースはきわめて稀である。それらは、どのように複合したり、変化したりするものなのだろうか。ここからは私の考えになるが、大ざっぱに言って、
もっとも、上に示したのはあくまで概念的な枠組みであり、じっさいにどういう形で強化されているのかは、それぞれの人において異なる。 さらに重要なことは、時間軸と空間の軸で種々の組み合わせがありうること、また、当該の人間自体が、成長や加齢とともに変化してしまうことである。歳をとり、身体能力が衰えていけば、本人の希望通りにはかならずしもいかなくなり、否応なしに「したい」行動が「しなければならない」行動に転化することもありうる。 ここで少々脱線するが、最近、大学教育改革に関してしばしば感じることは、教員に課せられる行動の多くが、「しなければならない」随伴性で推進されようとしている点である。外部研究資金獲得にしても、GP申請にしても、そういう行動をとること自体が望ましい行動であることは全く異論ない。しかし問題は、それがどういう行動随伴性で制御されようとしているかという点だ。「しなければならない」随伴性は、「しなくても済む」抜け道やアリバイが見つかれば、そちらのほうに流れやすい。例えば、各学部・研究科で最低1件はGP申請準備を、などとトップダウン的に推進しようとすると、もともとあまり乗り気でない部局は、形式を整えるだけの準備作業に終わってしまう。これでは、改革は活性化されない。2月1日には、こういう問題に関連したシンポが予定されており、ぜひ参加してみたいと思っている。 次回に続く。 |