じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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ワルナスビの実が熟し、表皮がスイカ状の模様からミニトマトやカボチャのような色に変わってきた。なお、この株の撮影場所は、5月30日付けの花や、道端の「スイカ」 (8/17付け)と同一。 |
【思ったこと】 _91007(水)[心理]「○○はなぜ××なのか」を考える(4) 当分のあいだ、「○○はなぜ××なのか」という問題を 「人間はなぜ××なのか」(「なぜ××するのか」や特定集団の行動傾向に関する疑問を含む) に限定として話を進めることにしたい。 さて、この「人はなぜ××なのか」という疑問に答えるにはどうすればよいだろうか。 まず、その疑問となる「人は××である」という前提があやふやで、思い込みや誤解に基づくものであった場合は、 いや、じつは人は××ではなかった。 という否定的根拠を示すだけでも、疑問が消滅することがある。例えば、強い不信感があり、「人はなぜ自分のことしか考えないのか」という疑問を持っている人に対しては、「いや、あなたのことを考えてくれる人もいますよ」とか「自己を犠牲にして世のため人のために尽くしている人もいますよ」というような事例をしめし、共感的理解や感動を与えることができるならば、その人の人間不信に関わる疑問は消えていくだろう。 この第一の方法は、個人的な境遇(「自分はなぜ不幸なのか」)を「説明」する場合にも有用である。「自分がなぜ不幸なのか」を論理的に説明されるよりも、「いや、じつはあなたは不幸ではない」と説得されたほうが歓迎されるであろう。 第二は、その人が当たり前と思っている出来事から三段論法で導出するという方法である。これは、数学における証明と同じやり方である。前提となっている「当たり前」が確実であるならば、これは経験科学と同一であり、応用性も出てくる。いっぽう、自己体験や思い込みを「当たり前」と決め込んでいる場合には、結果として、誤った解釈をしてしまう恐れもある。また、三段論法ではなく、アナロジー(類推)やトートロジー(循環論法)が紛れ込んでいる場合は、単なる「納得」の域を出ないこともありうる。 第三は、「結果としてそうなった」という形の説明である。例えば「人はなぜ戦おうとするのか」という問いに対して、 仮に地球上に、戦おうとする遺伝子を持った種族と、戦うことを拒否する遺伝子を持った種族が同時に存在していたとする。それらの種族が対立したとすると、戦おうとする遺伝子を持った種族のほうが勝ち残る。このような選択(淘汰)を繰り返した結果がいまの人類である。 というような「説明」である。この論法を使えば、人間の行動傾向の大部分はすべて「進化の結果」だけで説明できてしまう。この論法もある程度は成り立つが、個々人の発達や経験がもたらす行動多様性を説明することはできない。 第四は、個体ごとが環境との関わりのなかでどのように行動を形成したのかを明らかにしていくというアプローチであり、行動分析学の随伴性に基づく説明がその代表例である。この方法を用いれば、単に納得を与えるばかりでなく、当該行動を予測したり制御することが可能となる。 第五は、断片的な事実をうまくつなぎ合わせて物語を作るというやり方である。ナラティブセラピーが代表例であると言えよう。 不定期ながら、次回に続く。 |