じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2009年版・岡山大学構内の紅葉(31)ツツジの黄葉 2009年版紅葉の写真の最終回は、ツツジ(ヒラドツツジ)の黄葉。昨年の写真は2008年12月21日の日記にあり。 |
【思ったこと】 _91230(水)[心理]東北アジアの幸福観(10)世俗主義の幸福論(6)幸福の多元性/まとめ 昨日の日記で、現代のリベラル・デモクラシーでは、幸福は多元的であって、何が正しいかというような議論はできない、故に、政治は幸福を扱わないというような風潮があるというような話題提供があったことを記した。引用された愛敬浩二氏や斎藤純一氏の議論を踏まえると、立憲民主政治の起源には宗教問題があり、立憲民主政では宗教は公共空間から排除され私事化されるということになる。 しかしそのいっぽう、多元化した幸福を「脱私事化」することによって活性化する熟議・闘技デモクラシーというのもあるそうだ。「熟議」とか「闘技デモクラシー」という言葉は初耳であったが、ネットで検索したところ、だいたいこういう使われ方をしているのか、という程度の理解は得られた。話題提供者のレジュメからの孫引きをすると、宗教的言説が入り込むことにより従来の「公私区分」が攪乱され、新たな法の創造や民主的討議の可能性が開けるという考え方があるとのことである。但し、国内の宗教的対立が深刻であるような状況では、公共空間に政教分離原則を適用する考え方は有用であるという。話題提供者のまとめの言葉は「幸福について赤裸々に語ることが現代リベラルデモクラシーに必要」ということであった、 以上が、「世俗主義の幸福論」というタイトルの話題提供についてのメモであるが、やはり政治学や政治思想史の研究というのは、心理学と似ているような対象を論じているようにも見えて、発想や研究手法はまるで異なっており、こうも違う角度からの見方があるのかと驚かされた。 最後のあたりの問題を私なりに考えてみるに、まず、 「何が不幸か」ては万人に共通性がある一方、何が幸福かという議論を始めると、最後には殴り合いの喧嘩になってしまう...というのは行動分析学的にみて2つの点が対応しているように思えた。 1つは強化の随伴性における「好子(正の強化子)」と「嫌子(負の強化子)」の区別である。確かに、嫌子というのは、人間生活上有害な事象であることが多く、多元性はあまりない。いっぽう、好子のほうは、生理的に規定される必要な食べ物や飲み物や性的刺激といった生得的好子を別とすれば、たいがいは多種多様。あとは、それぞれの社会や文化における習得性好子の形成過程が多種多様であるのか、それとも単色で、国家やカリスマ指導者によって意図的に形成されていくのか、ということによって違いが生じるであろうというが言える。 もう1つは、人間はもともと集団で行動することで進化した動物であるため、有害事象に対しては共同で対処することが多い。いっぽう、好子出現で強化されるような行動の場合は、資源や行動機会の奪い合いが生じやすいということである。 最後の「政治は幸福を扱わない」という点については、政治権力が個々人の選択を強制しないという点に限ってはその通りであるとは思う。しかし、現実世界では、ある政策を実施することで、特定の行動形態が社会的に強化されやすくなり(経済政策、優遇策など)、結果的に特定の幸福観が達成されやすくなるということはあると思う。このことに限らないが、経済の視点を抜きにして、思想や幸福観を一般的に語ることは無理であると思う。 以上の話題提供に続いて、指定討論者からのコメント、さらにフロアからの意見を交えたディスカッションが行われた。 その中で印象に残ったコメントを以下にメモしておく(あくまで順不同)。
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