じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 土曜日の昼、久しぶりに某ラーメン屋で昼食をとった。不況などと言われるが、新幹線沿いのこの付近の土地は開発が盛んで、数年前とは風景が一変している。写真上は、2年半ほど前に、ラーメン屋の駐車場から撮った草地。ヒレタゴボウのお花畑になっていた。写真真ん中は、先日、新幹線で小倉から岡山に戻る途中で撮影したもの。ヒレタゴボウの咲いていた空き地は、家電量販店が建っている。写真下が、今回、ラーメン屋さんの駐車場から改めて撮ったもの。年月の経過による変化のほか、新幹線の車窓からと、下からの見え方の違いに趣があった。



2月21日(日)

【思ったこと】
_a0221(日)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(5)「仲間」でないと応援できない

 昨日の日記で、
 個人やチームを応援するという行動は、じぶんと応援対象との間に、同じ集団に属するという仲間意識、あるいはじぶんとの間に何らかの共通性があった場合に限って強化される行動であるかもしれない。
と述べた。『新明解』(第六版)では、「仲間」の定義としては
  1. 一緒に何かをする(している)間柄。
  2. 同類。「サザンカはツバキの仲間だ」
という2つが挙げられているが、言うまでもなく、ここで論じている「仲間」は、2.のほうの意味である。ここで重要なのは、応援する相手(集団)との間に、直接的なつきあいが全くなくても構わないということだ。スポーツ選手を応援する時などはこれはありがちなことであり、応援の声が当事者に伝わるかどうかさえ問題ではない。また、「じぶんとの共通性」というのも多種多様であって、例えば、自分の部屋で飼っている金魚や鉢花でさえ、仲間となることがある。

 では、オリンピックではなぜ、じぶんと同じ国の選手を応援したがるのだろうか。これは、応援する側が素朴にそういう気持ちを持つというよりも、競争の単位が国別になっていること、テレビや新聞が国単位で声援を送ろうとしていることに影響されている面が大きいのではないかと思う。

 テレビや新聞が国を単位として声援を送るのは、別段、国威発揚を意図したわけではない。国民全体が、それらマスコミの視聴者(あるいは、新聞の購読者)になっているからにすぎない。であるからして、都道府県対抗駅伝では、NHKや全国紙は、各チームを公平に扱う。そのいっぽう、ローカル番組や地方版では、地元のチームの活躍ぶりを大々的に取り上げる。そのほうが視聴者(購読者)にとって身近な仲間であるからだ。

 また、大相撲中継では、NHKは、日本人力士だけを応援するような取り上げ方はしない。モンゴル出身でも、ブルガリア出身でも、エストニア出身でも、とにかく、かれらはみな大相撲の力士としてひとくくりの集団を構成しており、国別対抗というような競争場面は設定されていないからである。

 なお、タイトルに挙げた

●「仲間」でないと応援できない

という主張にはトートロジカルな側面があるので注意が必要だ。「仲間だから応援する」と言えるいっぽう、「応援することが仲間であることの証しである」とも言えるからである。であるから、「仲間」という概念で「応援」という行動を説明するためには、「仲間」が成立する基準を別の形で定義しておかなければならない。あくまで思いつきだが、
  • その人が特に重視している属性
    →身長のことを気にしている人にとっては同じ身長の人は仲間になるが、身長などどうでもいいと思っている人には仲間の基準にはならない。年齢を気にしている人にとっては「同じ世代」は仲間だが、年齢を超えた交流を重視している人にとっては「世代」はあまり重要ではない。
  • 単純に、接触機会が多いこと
  • 他の属性において敵対したりライバル関係にならないこと
    →同じ県の出身者という共通の属性があっても、プロ野球で別のチームを応援していると仲間にはなりにくい。
  • じぶんとはあまり共通性が無くても、共感や同情の余地がある相手は仲間になりやすい。
などが基準として考えられる。但し、「マスコミや多数派に煽られて応援している」という面もかなりあるのではないかと思う。

次回に続く。