じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2月25日は岡大構内で前期・個別学力試験が行われた。ほんの短時間ではあったが、南北通りでは岡大西門〜53号線交差点(岡大筋交差点)の区間が両方向とも渋滞した。このさい、臨時バスは農学部入り口で左折し、本部棟付近で受験生を降車させるというのも一案ではないかと思う。


2月25日(木)

【思ったこと】
_a0225(木)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(9)国を応援することのマイナス面

 昨日の日記では、国どうしで競い合うことのポジティブな面を述べたが、裏を返せば、これらはすべて、ネガティブな面とも直結している。

 まず、昨日述べた

◎競技の面白さにふれるきっかけを作る

というのは、裏を返せば、

×日本人選手が活躍しない限り、その競技の面白さにふれるきっかけは殆ど無い。

ということになるだろう。

 また、

◎日本人選手が出場する場合は、その選手の生い立ち、努力、いろいろな人からの支援や繋がりが紹介されることが多い。このことによって、単にメダルを取るかどうかという結果論ではなくて、選手個人の努力のプロセスを知ることができ、その分、感動が大きいというメリットもある。

というポジティブ面は、逆に言えば、

×世界各国の選手のそれぞれの苦労、努力、その積み重ねを知る機会を奪われてしまう。出場選手が日本人であるかどうかだけによって、応援の基準を決めてしまう。

というネガティブな面につながる。

 このあたりは観る側の姿勢によって大きく変わってくるであろうが、自国選手を熱心に応援するあまり、他国の選手の良さを評価せず、時には失敗を喜んだり、審判の判定に腹を立てたりすることがある(←ま、自国選手の勝利にこだわる人たちはどこの国でも見られる傾向であって、日本人などはむしろおとなしすぎるかもしれないが)。

 とにもかくにも、日本人選手が出場しなかったり予選で敗退してしまったような競技においても、世界最高の技を観戦できる機会がもっと与えられれば、オリンピックはもっと楽しいものになるに違いない。さらには、いろいろな国の選手の努力の積み重ねをもっと詳しく紹介すれば、感動を共有できるチャンスも広がるはずだ。

 余談だが、日本人選手が出場すると、出身地などの地元の応援風景を流し、大型スクリーンの前で声援を挙げている関係者にインタビューをするというお決まりの場面があるが、ああいう報道のしかたでは選手自身の努力のプロセスはちっとも伝わってこない。ある意味では安直な報道とも言える。また、地元選手に声援を送るという素直な気持ちは大切だとは思うが、「出身地が同じ」というだけで「仲間」扱いしてしまってよいものか(←2月21日の日記参照)、もっとも多種多様な情報を集めて、(外国人選手を含めて)じぶんに一番ぴったりの選手を探し出して個人的に応援するという多様なポジションがあってもいいのではないかと思ってみたりする。

次回は、「スポーツはなぜ競わないと面白くないのか、競わなくてもよいスポーツはないのか」といった点について考えてみることにしたい。