じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 黒正巌先生像と折田先生像

 各種報道によれば、京大の個別学力試験会場には、今年もまた折田先生像が登場したとか。

 いっぽう、岡大では、なんといっても時計台前の黒正巌先生像があるが、2月20日の日記に記した通り、現在、時計台前の芝地は改装工事中であり、この黒正巌先生像はブルーシートにかぶせられている。折田先生像で言えば、モアイ像のようなものか。


2月26日(金)

【思ったこと】
_a0226(金)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(10)スポーツはなぜ競い合うのか

 今回は、オリンピックを離れて、スポーツ一般がなぜ「競い合う」という形態をとるのかについて考えてみたい。

 まず、ウィキペディアの当該項目では、スポーツは、
人間が考案した施設や技術、ルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体を使った行為。
というように定義されており、「競争」が定義の中に含まれていることに気づく。

 もっとも、語源に関しては
「スポーツ」の語源はラテン語のdeportareにさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」という語感、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感から、古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在のsportに至ったと考えられる。
となっており、リクリエーション的な意味合いが強く、「競い合う」ことは必ずしも必要条件ではないようにも思える。




 ひとくちにスポーツと言っても、自らが気晴らしや楽しむために行うスポーツと、選手の競技を観戦する場合とではだいぶ性格が異なる。前者の場合は、体を動かすだけで楽しめる場合もある。いっぽう、後者の場合は、他者の強さや努力が感動を与える。

 「No cross, no crown.(困難なくして栄冠なし)」という言葉があるそうだが、私なりに付け加えるならば、「努力なくして栄冠なし」であり、さらには「困難なくして努力なし」ということも言えるのではないかと思う。日常社会では様々な困難があり、我々はそれらに立ち向かい、努力し、克服しなければならない状況に置かれているが、スポーツの場合は、どちらかと言えば、困難状況は人為的に作られたものであり、その一環として競争が設定されているのではないかと思う。そういう意味では、

●努力の顕在化(明示化、可視化)としての競争

と考えることもできる。

 また、観る側から言えば、単に観戦するだけでなく、その競技に付加価値をつけるという意味合いもある。同じ選手の競技を観る場合でも、これが世界一だと言われればその分、ありがたみが出てくる。これは、山登りでも同じことで、例えば、こちらの山は、単に眺めるだけでも美しい山だと思うのだが、それに加えて「世界第十五位7782mの高峰」と表現されれば、その分、スゴイ山だなあと、有りがたみが出てくる。

 もっとも、まさに上掲のナムチャバルワの例にもあてはまるように、山というのはそれ自体に魅力があるのであって、世界で何番目であるとか、標高が何千メートルであるということは、本質的にはどうでもよいことだ。スポーツの場合も、メダル争いや相対比較ばかりにこだわっていると、本当の感動を味わえない恐れもある。

 次回に続く。