じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§ 2010年版・岡山大学構内の紅葉(30)目立ってきた「落ちないイチョウ」

 周辺のイチョウの葉がほぼ完全に落葉するなか、12月6日に掲載した「落ちないイチョウ」が真価を発揮するようになった。


12月11日(土)

【思ったこと】
_a1211(土)日本質的心理学会第7回大会(12)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(2)人は生まれた時から共同性があるか

 基調講演の前半部分で浜田先生は、フランスの精神科医・発達心理学者であったアンリ・ワロンに言及しながら、「人は生まれた時から共同性がある。私たちは本源的に、個別的であると同時に本源的に協同的である。相手と出会った時から、相手と同じになってしまう。」というようなお話をされた。ネットで検索したところ、こちらの第二回講義のところに、個別性(本源的自己中心性)と共同性(本源的共同性)、さらに後者が相補性(能動−受動のやりとり)と同型性(相手と同じ型をとる)というように解説されている部分があった。

 その中でも説明されているが、「利己的」という意味で使われている「ジコチュー」と、ピアジェが使っていた「自己中心性」という概念は全く異なっている。「利己性」というのは自分の利益をもっぱら大事にしようとすること、いっぽう、「自己中心性」というのは自分の視点からしか物事が見えないという意味である。太郎と次郎という兄弟が居て、次郎は4〜5歳だったとする。次郎に「お兄さんいる?」と訊けば「いる」と答えられるのに、「じゃあ、太郎くんにきょうだい、いる?」と訊くと答えることができない(122ページ)。この場合、次郎が利己的かどうかではなく、太郎の視点に立てるかどうかが問題なのである。

 もっとも、以上の議論については少々疑問がある。有名な「サリーとアン課題」もそうだが、この種の問題では、ことばをどう理解しているのかという別の問題が発生する。上掲の次郎くんの場合、「きょうだい」というのは、もともと自分を起点とした他者を分類する概念であったのかもしれないし、「お兄さん」という意味と混同して使っていたかもしれない。また、視点というのは必ずしも双方向的というわけではない。ビルの上から富士山が見えたからといって、富士山の頂上からそのビルが見えるとは限らない。(←高性能の望遠鏡で覗けば見えるかもしれないが。) また、鉄道マニアの子どもであれば、新宿駅、渋谷、新宿というようなそれぞれの駅から、どういう路線に乗ってどこまで行かれるのかというような知識は、かなり小さなうちから獲得できると思われるが、いくら乗り換え案内に詳しかったとしても、そのことと相手の視点に立てるかどうかは別の問題である。このほか、将棋や囲碁で、先手番と後手番それぞれの戦略を考えられるかというのも必ずしも自己中心性とは関係がない。

 ということで、私自身は、複数の視点に立てるかどうかということと、自己中心性の問題は切り離し、かつ、ことばによる質問に頼らない形で検証するべきであろうと考えている。

 次回に続く。