じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2011年版・岡山大学構内でお花見(39)キリシマツツジ(1) 5月上旬のヒラドツツジに続いて、今度は、キリシマツツジが見頃となっている。写真上は岡大・東西通り。写真にも写っているように、ここの植え込みは、下段がキリシマツツジ、上段がヒラドツツジというように二段になっていて、5月いっぱい、どちらかのツツジの花を楽しむことができるように工夫されている。 写真下は、学生会館南側の岡大・石庭。ツツジと石庭の組み合わせというと、京都・西賀茂の正伝寺が思い出される。あそこのツツジも今ごろが見頃ではないだろうか。 |
【思ったこと】 _b0524(火)2011年版・高齢者の心と行動(6) 行動を活発にして、喜びを獲得する仕組み(4)生きがいは強化とは無関係の独立概念であるという批判 昨日の日記の続き。今回は、 2.2. スキナーの主張は生きがいの必要条件でも十分条件でもない。生きがいは(正の)強化とは無関係の独立概念である。 という批判・異論について考えを述べることにしたい。なお、繰り返しになるが、ここでいうスキナーの主張とは Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. /生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである。要するに「欲しい物を手にするだけでは決して幸せにはなりません。幸せは行動の中にあります。それも、能動的に働きかける行動、そして結果(=好子)が伴う行動の中にある。」ということであり、スキナーのいう理想の「罰なき社会」とは「能動的に行動し、かつその行動が強化されている社会」という意味である。 さて、上掲の批判・異論であるが、これは、批判者が「好子出現の随伴性による強化(=正の強化)」をどの範囲まで受け入れているのか、あるいは全く認めていないのかによって、答え方を変えなければならないように思う。批判者が、強化理論を全く認めないというのであれば、議論がかみ合うはずがない。対話を継続するためには、そもそも強化理論とか行動随伴性をどう考えるのか、批判者はその対案としてどのような理論を支持しているのかという、原点に戻った議論が必要である。 いっぽう、批判者が強化理論をある程度認めている場合は、どの範囲までを好子(=正の強化子)と考えるのかを確認しておく必要がある。 例えば、切腹覚悟の仇討ちや、昨今の自爆テロなどの行為は、最終結果として死がもたらされるため、どうみても好子出現の随伴性によっては強化されていないように見える。しかし、そうした人々が、固い信念(←それが正しいか間違っているかは一切問わない)を持っているならば、それを成就することがまさに好子出現ということになる。切腹や自爆は、遂行者自身に痛みや苦痛をもたらすのでいっけん嫌子出現と思えてしまうが、それを超える「成就」という好子があれば、「それが結果としてもたらされたがゆえに行動する」という範疇に含まれることになる。 そうやって好子の概念を拡張していくと、「高級な喜び」と「低級な喜び」を区別したジョン・スチュアート・ミルも、行為の道徳的価値を強調したイマニエル・カントも、けっきょくは、特定の好子出現で強化されて行動していたと考えることができる。 次回に続く。 |