じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2011年版・岡山大学構内でお花見(73)ホウキギの中の紅色 岡大西門左手の花壇のホウキギ(コキア)が緑色に輝いている。それと補色関係にあるのが、ハゲイトウ(左)と巨大輪マツバボタンの花(右)。もっとも、このホウキギは、まもなく深紅に紅葉する。ハゲイトウやマツバボタンが目立っているのは今のうちだけ。 |
【思ったこと】 _b0929(木)日本行動分析学会第29回年次大会(13)許可の随伴性・阻止の随伴性・ルール支配行動:青年・成人臨床事例からの再考(10)学生相談場面の事例から(2) 昨日の日記で、Skinner(1969)による「ルール」の定義とルール支配行動の特徴について言及した。ルール支配については、9月22日や9月23日の日記でも議論したところであるが、ここでもう少しだけ付け加えておくことにする。 まず、そもそもルール支配に関して何を自明の前提とするのかということであるが、私は、少なくとも以下の2つが必要であろうと考えている。
9月22日の日記にも述べたが、Catania(1991)は、ルール支配を「Behavior controlled by verbal antecedents」と定義している。確かにこれだけでは、言語的な先行諸刺激がどのようにして行動をコントロールするのか、そのメカニズムは全く分からない。しかし、研究対象の範囲を明示するための定義であるなら、むしろこのほうが正確であるようにも思う。 いっぽう、杉山ほか(1998)では、 とかなり具体的に定義されているのだが、そもそも我々は、「行動随伴性を記述したタクト」だけに振り回されているものなのか、もっと曖昧な記述もあるのではないか、という疑問が残る。まして、「そのルールの中に示された行動を制御すること」だけがルール支配なのか、についてはかなりの議論が必要ではないかという気がする。 前者に関して言えば、例えば、毎朝、近くの神社にお参りする人の場合、家族の健康、平穏、御利益といった、「お参りすれば○○という良い結果が得られる」あるいは「お参りしないと××という良くないことが起こる」といったルール支配が考えられるが、願をかけている人を除けば、「言語的に記述」されるという随伴性がそれほど明確になっているとは思われない。さらには、当人が「○○のためにお参りしています」と答えても、実際には、お参りの道中の自然やすれ違う人との交流が真の好子になっている可能性もありうる。 それから、指定討論の時にもちょっとだけ言及したが、例えば山道を車で運転している時に「この先急カーブ、危険」というような案内板があったとする。これをみて速度を落としたり、前方を注視する行動は、形式上は 「ブレーキを踏んだり前方を注視する」という行動をする → 崖から転落するという嫌子の出現を阻止 「ブレーキを踏んだり前方を注視する」という行動をしない → 崖から転落する(嫌子出現) という阻止の随伴性を記述したルールに支配されているようにも見えるが、実際、車を運転している人は、「ここでこうすれば安全に先に進める」という弁別行動を持続させているだけであって、カーブのたびに、崖下転落という嫌子に脅かされているわけではない。 余談だが、昨日たまたま、某ブログ経由で、「ウルバッハ・ビーテ病(Urbach-Wiethe disease)」に関するネット記事(2010年12月20日)が目にとまった。記事内容が真実であるとすると、その女性には恐怖をもたらす嫌子が存在しないことになる。それでもなお、車を安全できるとするならば、安全運転を支えているのは「事故」という嫌子の出現を阻止する随伴性ではない。単に、「ここでこう曲がって、ここはゆっくり、ここは速く走れば、目的地に到達できる」という好子と行動の連鎖だけで形成されていることの証となるであろう。 次回に続く。 |