じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _b1129(火)日本質的心理学会第8回大会(4)「個性」の質的研究(3)十円玉の喩え 昨日の日記で、個や個性に注目することに意義があるかどうかは、ニーズに依存すると述べた。このことをうまく説明する方法としては十円玉の喩えがある。(←百円硬貨でも五百円硬貨でも趣旨は変わらないが、いちばん手元に残りやすいということで十円という金額を取り上げている。) 授業で私が実演するのは、財布の中から2枚の十円玉を取り出して、「この2枚は、同じだと思うか、違うと思うか?」と尋ねるやり方である。自動販売機で十円玉を使おうと思っている人にとっては、2枚はジュースを手に入れるための機能として区別する必要がないので「同じ」と見なされる。いっぽう、稀少なコインを集めている人にとっては、特定の発行年の十円玉には希少価値がある。(こちらのサイトによれば、昭和33年、昭和61年、昭和64年あたりが稀少であるようにも見える。) つまりコイン集めの趣味のある人にとっては、発行年が異なるコインは、同一ではない。さらにはコインの汚れ具合や摩耗にも差違を見出すであろう。 いま述べたのは「何が同一かという基準は、ニーズに依存する」という事例であったが、これを「個性とは何か」に敷衍することができる。仮に100枚の十円玉があり、その中に1枚だけ昭和64年の十円玉が混じっていたとする。 個性とは、「多数の『個』の中で、ある『個』だけが特有に示す特徴や構造」と考えることができる。 という定義から言えば、「昭和64年」という刻印は、100枚の十円玉の中でその1枚だけが特有に示す特徴なので、当該十円玉の「個性」ということになるだろう。 しかし、「昭和64年」という個性は、自動販売機でジュースを買う人間にとっては何ら意味をなさない。コインを集めるというニーズがあればこそ、重要な個性になってくるのである。 もう1つ重要な点は、「昭和64年」という個性は、他者との相対的比較、つまり多数派の中にポツンと置かれて初めて、成立する概念である。その十円玉自体をどのように定性分析しても、「昭和64年」という個性は見出されない。 なお、コインは、「このコインは、亡くなったおじいちゃんから貰った最後のお駄賃だ」というように、金額や発行年が何であれ個人との関わりの中で特別の重要性を持つ場合がある。しかしそれは、私的出来事の世界での重要性であるため、コイン自体の個性ではなく、対象者とコインとの関係性に関わる個性として分析されるべきであろう。 次回に続く。 |