じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _b1210(土)日本質的心理学会第8回大会(15)「個性」の質的研究(14)関係の中における個のふるまい(5)森氏の指定討論(1) 渡邊氏による企画趣旨説明、矢守氏と大橋氏による話題提供に続いて、札幌学院大学の森直久氏による「指定討論ですが俺にも言わせろ 皆さんも言ってね」という指定討論が行われた。 日本心理学会第73回大会の参加メモ・感想のところにも記したことがあるが、森氏の指定討論はツッコミが鋭く、まことに意義深い。 今回の森氏の指摘は、私自身が11月28日の日記で述べたことと共通しており、 ●特定の個が「一般」か「例外」かということは決定できない。 というようなご趣旨であった。森氏はこれを外部基準と内部基準という視点から考察された。 「個(個別性)」を知りたいと思って研究を始めたとしても、実際に得られるデータは新たに出会った人一人である。その段階では、確率的に「こういう人だ」と言い得るのみであり、不定があればそれは誤差と見なすことになる。これが外部基準に関する議論である。けっきょく、例外とか特有といった議論の前提には、法則実在論があるのではないか、というのが森氏のご指摘であった。すなわち、個というものは、個の外部にある法則によって拘束されている。その法則は特定の個物に依らず一定であるという前提が置かれる。 いっぽう、大橋氏の話題提供にあった「エスノメソッドの行使に向かうなかで現れるパーソナルメソッド」というのは、内部基準に関する議論である。そこでは、「法則は個物に属する」というアリストテレス的な「力」の概念が復活している。森氏はこれは心理学的に言えば、「固有の運動を示す個が、どのようなinformationを探査しながら発達の軌跡を見せているのかを明らかにする」ことであると主張された【あくまで長谷川の理解】。 ここでまた、私なりの考えを付加させていただくが、行動分析学的な見方から言えば、絶対的・普遍的な法則とか真理なるものは何も実在しない。こちらの注【4】に述べたように、 自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。では、行動随伴性は法則ではないのかということになるが、これは「法則」ではなく、行動を分析するツールと呼ぶべきである。行動や外部環境の変化が弁別できる(測定できる)という前提で、この枠組を適用すると、行動の予測や制御が確実に行えるようになるというツールであって、「好子出現による強化」とか「嫌子出現による弱化」などというのは、それ自体はむしろ、転用可能性を含んだ定義のようなものである。であるからして、行動分析学は、行動の原理を発見する学問ではなく、 行動の原理が実際にどう働くかを研究する学問である(杉山ほか、1998、8頁)と定義されているのである。 次回に続く。 |