じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
§§ | 2月16日は、運動公園近くのレストランで予餞会(卒業生を送り出す会)が行われた。写真は会場に向かう途中に明るく輝いていた金星と木星。前景は人見絹枝ブロンズ像で、像の右肩にあるのが金星、その上に輝くのが木星。 |
【思ったこと】 _c0217(金)QOL評価・向上のための複合的多項随伴性アプローチ(16)中期的分析(3)日常生活行動を儀式化せよ(2) 昨日の続き。 昨日も述べたように、日常行動を儀式化することについては、
日常生活を支える基本的行動はどちらかと言えば義務的であり、「したいこととしてする」のではなく「しなければならないこととしてする」というイメージが強い。しかし、それらが一連の行動として自動化されれば、「それをするのが当たり前」となり、時には、その日の「作務」が知らず知らずのうちに完了してしまうということさえある。逆に、その一部をサボると何となく落ち着かなくなるほどである。 行動を儀式化することは、中期的に見て、より大きな結果の随伴により強化される。個体差はあるが、結果として、健康維持や余暇の確保などが期待される。規則的な生活が確立することで、健康的な食習慣、適度の運動などが自動化され、また必要な作業を順々にテキパキとこなすことで、時間的な余裕が生まれ、その分、余暇を楽しめるようになるからである。 このことに限らないが、「しなければならない」という阻止の随伴性によって強化される行動は、単独では束縛的で義務的で窮屈な行動であるが、入れ子構造の全体に大きな結果(好子)が随伴することで、ひとまとまりの行動として強化されるようになる。 (ひとまとまりの行動(義務的行動A→義務的行動B→義務的行動C→...))→大きな結果 というような入れ子である。いっぽう、儀式化されていない状態では、 義務的行動A、義務的行動B、義務的行動C、... というように個々バラバラの義務的行動が混在するだけで、面倒でたまらないということになってしまう。 もちろん、日常生活行動の中にも、かつては大変な重労働であった、手もみ洗濯、掃き掃除、かまどのメンテ、炊飯、トイレ掃除などのすべてを儀式化することは困難であろう。そのかなりの部分は、洗濯機、掃除機、IH器具、水洗トイレなどの登場で省略できるようになった。しかしだからといって、日常生活行動は決して、個人を束縛する義務的行動で、機械化に頼れれば頼れるほど良いというものではない。どんなに技術革新が進んでも、人間生活のコアとなる基本作業は、禅寺の作務のような形で残すべきであろうと思う。 次回に続く。 |