じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
§§ | 農場の麦畑。1月17日の写真と比べると成長ぶりがよく分かる。なお、岡山では2月22日の18時頃から雨が降り続き、2月23日06時までの24時間積算降水量は18.5ミリ、また23日朝の最低気温は6.9℃と、春をもたらす雨となっている。麦畑でもさらに成長が進むであろう。
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【思ったこと】 _c0222(水)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(3)麻生氏の話題提供(2)私的な体験事象は科学の対象になるのか 昨日の続き。 麻生氏の話題提供の後半では、「私的な体験事象は科学の対象になるのか?」が論じられた。具体的に取り上げられたのは、御自身の当時1歳10ヶ月11日の息子さんU君(←但し29年前の話)のエピソードであった。御自身の弟さんの1歳6ヶ月15日の息子さんシマ君が手づかみで食べていたことに対してU君が「オテテダメ」と言ったことに対して、御自身が「シマ君は小さいから手で食べてもいいの、Uちゃんは大きいから・・・」と言ったところ、U君は「トータンイヤー」などと拗ねたというようなエピソードであった。このような出来事はどこの家庭でも起こりうることであるが、問題は、そのような“私的な「物語」”は本当に「物語」と言えるのか?、出来事ではないか?、いや、出来事というより体験ではないか? というのが、このことに関する問題提起であった。 麻生氏はさらに、「私的で個別的な体験は、科学において無視する必要がある。私的で個別的な体験に見えることを、その手続等の「一般性」において再現可能なものとみなし、そこで産み出される言説を抽象的で一般的なレベルでシステム的に扱うことが、科学に求められていることである。・・・」と主張された。 U君が拗ねた原因が、自分の主張(オテテダメ)が否定されたためなのか、シマ君と異なったルールに従うという「差別的」要求をされたのか、単に、父親(=麻生氏)の諭し方が威圧的であったのかは定かではないが、「ある条件のもとで、ある行動に対してある結果を与えた結果ある変化が生まれた」という記述は、私には観察事実として十分であるように思えた。「オテテダメ」というルールの適用や例外的扱いに関して子どもがどのような行動をとるかということは、個人についての縦断的な記録、あるいは、同年齢の中での横断的な比較によってシステム的に扱うことができるはずである。 しかし、麻生氏によれば、こういう扱い方というのは、私的で個別的な体験から、体験的で歴史的な文脈を切り離してサンプル言説的に扱うことになる(グラウンデッドセオリーのように)。麻生氏はさらに、ブルーナー(Jerome Seymour Bruner)のように、論理的な思考様式とナラティヴ的な思考様式を対比させるだけでよいのか?という問いを立てられた上で、そこで言われている論理的な思考様式というのは、「個別」と「普遍性」に関する長い哲学の歴史をもつヨーロッパ的思考様式の特異性に基づくものであって、日本人の常識とは異なる、というように主張された。 このあたりのところでまでで私自身が思ったこととしては、そもそも科学とは何かということであった。この日記でも何度か書いているが、私自身は、科学、あるいは科学的法則については、 科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という立場をとっており、また、1つの行動事象が、個体をとりまく環境や前後の文脈から切り離してサンプル的に処理できるとは全く考えていない。そして「一般化可能性」や「普遍性」よりは「適用可能性」を重視する。こういう観点から見ると、ご指摘の内容はそれほど深刻かつ重大な問いかけではないようにも思えた。 あと、「個別性」や「個性」ということについては、こちらの記事の中でもいくつかの考えを述べているが、ここでは重複するので省略。 次回に続く。 |