じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§  岡山では2月22日の18時頃から雨が降り続き、23日と合わせて25.5ミリの降水量を記録した。これで2月の合計降水量は59.5ミリとなり、平年値の50.5ミリを超えた。写真は、農学部東西通りのイチョウ並木。


2月23日(木)

【思ったこと】
_c0223(木)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(4)麻生氏の話題提供(3)「日本人の常識」と「欧米世界の非常識」

 昨日の続き。

 話題提供の終わりのところで麻生氏は、「日本人の常識」と「欧米世界の非常識」、普通の日本人の常識では、「過去の私的で個人的な体験も、それが言葉で語られ、その個人がイキイキと想起できるのならば、それは十分、共同的な「知」の対象である」こと、それは物語の世界ではなく事実の世界に属しているという点でナラティヴとは言わないと論じられた。なお、同じスライドの中に、「マズロー曰く、子供が生まれたら、行動主義がばからしくなりました」という引用があったが、本題から逸れる恐れがあるので、ここではメモ書きにとどめておく。

 麻生氏はさらに、御自身の著書を引用され、欧米的な普遍性への志向に裏付けられた「(自然科学的)観察」に対して、私たちの素朴なものの見方を「現象的観察」と名付け、日本人の常識にそった「観察」のとらえ直しを提言したことにふれられた。また、日常生活レベルの出来事や体験事象を描いていくのには、プラトン、アリストテレス、デカルト、フッサールなどに根ざす「学」とは異なるレベルの「厳密ではない学」があってもよいのではないか? しょせん世界は私たちのエピソード記憶のレベルでしかとらえきれないのだから。と論じられた。

 ここまでのところで私なりの考えを述べようと思うのだが、そもそも私は、プラトン、アリストテレス、デカルト、...に関しては、大学院受験の前にラッセルの西洋哲学史の本を読んだ程度で、それぞれがどういう点で厳密であるのかを十分に理解できていないし、麻生氏の御著書も拝読していないので、「厳密ではない学」がどの程度のレベルと範囲を許容しているのかは理解できていない。但し、私たちを取り巻く世界は、単なるエピソード記憶のレベルではなく、個体と外界と関わり(=オペラント行動)とそれによってもたらされる変化、つまり行動随伴性によってとらえられるものであり、エピソード記憶はその一部の言語化にすぎないという考えは持っている。それと、何も西洋人だからと言って、すべての人がプラトン、アリストテレス、デカルト、...に傾倒しているわけではない。また、日本人だからと言って生活の隅々まで神道や仏教の見方を貫いているわけではないし、中国人だからと言って仏教や儒教や道教の影響を受けているわけでもない。

 確かに、日本語と欧米言語では、主語、動詞(他動詞と自動詞、受身や使役の表現)、モノとコトなどさまざまな違いはあるが、だからと言って、我々が欧米の文学や芸術にふれようとする場合、あるいは、欧米人が日本の文化に接する場合、本質的で乗り越えられない障壁があるというほどでもあるまい。

 「厳密ではない学」はあってもよいだろうが、それならいっそのこと、日常生活レベルの出来事や体験事象の記述は、質的心理学者ではなく、するどい観察力と表現力にあふれる小説家の手に委ねたほうがよっぽどリアルで、他者に活かせる情報を提供できるようにも思える。

 シンポの後のフロアからのディスカッションの中でも話題になったことであるが、事実かどうかということは歴史認識などではきわめて重要であることは疑いの余地が無い。但し、実際に起こったことの正確な記述と、小説家がアレンジしたフィクションのどちらが迫真に迫る記述であるかは一概には言えない。実際に起こった出来事というのは、必ずしも純粋性そのものではなく、無限に近い種々の要因が偶然的に作用した結果との複合的産物になっている。また、そうした無限に近い要因をすべて記述することは不可能であるからして、事実を詳細に調べれば調べるほど純粋性がはっきり浮かび上がるというものでは必ずしもないと思う。


次回に続く。