じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§  「岡山富士」の「ダイヤモンド富士現象」始まる。岡山市の東にある芥子山のことを「岡山富士」と勝手に呼んでいる。私の住んでいるところでは、ベランダから、2月下旬から3月初めにかけて、「ダイヤモンド富士現象」が見られる。写真は2月27日(月)朝の様子。昨年3月5日の記録からみて、この山の頂上から太陽が昇るのは3月1日前後ではないかと推測される。問題は、この時期に東の空が晴れてくれるかどうかであるが、週間予報では残念ながら、この前後は曇りまたは雨の予報となっている。

 「岡山富士」は私が勝手にそう呼んでいるだけであるが、「岡山富士」ではなく「備前富士」という呼び方は昔からあるらしい。

2月26日(日)

【思ったこと】
_c0226(日)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(7)斎藤氏による話題提供(2)ナラティヴ・アプローチからみた発達障がい大学生支援

 昨日の続き。

 斎藤氏のお話の後半では「ナラティヴ・アプローチからみた発達障がい大学生支援」という話題が取り上げられた。なお、斎藤氏のスライドでは「ナラティヴ」は「ナラティブ」と表記されていたが、ここでは他の話題と整合させるため、やまだようこ氏の表記に従い、「ブ」ではなく「ヴ」を用いることにする。同じく、「障害」は原則として「障がい」と表記することとしたい。

 斎藤氏によれば、ナラティヴ・アプローチは
発達障がいを、学生の人生と生活世界の中で体験される一つの物語として理解し、学生を物語の語り手として尊重するとともに、学生が自身の特性をどのように定義し、それにどう対応していくかについての学生自身の役割を最大限に尊重する。
という形で行われるという。そして、
  • 支援者の拠って立つ理論や方法論も、あくまで支援者の一つの物語と考え、唯一の正しい物語は存在しないことを認める。
  • 発達障がいの支援とは、学生、支援者、教職員、家族等が語る複数の物語を、今ここでの対話において摺り合わせる中から、新しい物語が浮上するプロセスであると考える。
という指針のもとに、特定の能力が障がいされていると考えている学生に対して、そうではなくて、能力に偏りがあるために通常の社会的コンテクストへの適応が難しいのだという方向で、現実経験や創造的経験を意味づけていくのである(あくまで、長谷川の理解)。

 こうしたアプローチは、「発達障がい大学生」を対象とした場合には大いに効果を発揮するようにも思えた。というのは、斎藤氏もご指摘のように、「発達障がいの大学生では、一般には常識とされるような社会的なコンテクストが読み取れないため、日常生活に著しい困難を生じている」人が多いからである。しかし、彼らは一方では、「テクストをうまく使いこなし、テクストからコンテクストを産み出す能力に優れている」。よって、ナラティヴ・アプローチを活用することで、過去の嫌な体験や劣等感をポジティブな方向に転換することが可能となるのである。話題提供ではそのような形で改善された事例が報告された。

 以上のアプローチについては、私自身は専門外でもあり現場の体験も無いので適確にコメントできる立場にはないが、一般論として、過去の嫌な体験、悲しい体験を引きずっているような人に対しては、物語の中でそれを意味づけし作り替えることで、よりポジティブな生き方が可能になるということはアリだとは思う。但し、私は、個人的には、人生はしょせ種々の活動の花束のようなものであり、自己の同一性・継続性、TEM(複線径路・等至性モデルのようなものを前提とする必要はない、自己の同一性・継続性は、その人個人に内在するものではなく、社会との関わりの中で要請に基づいて構築されているに過ぎない、と考えている。過去の種々の出来事が今の生活に重大な影響を及ぼしている場合には、それを忘れ去るか、別の活動に熱中するか、もしくは、ここで言われているように、シナリオを書き換えていくか、という少なくとも3つのやり方がある。どれが最適であるのかは個人しだいとも思えるが、少なくとも、忘れかけていたような過去の出来事をわざわざほじくり出して無理やり同一性を保とうとすることまでは必要ではないと考えている。

次回に続く。