じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2012年版・岡山大学構内でお花見(18)南極“蜂の巣岩"を包囲するマツバウンラン
一般教育棟某所に南極・東オングル島から運ばれた“蜂の巣岩"が展示されているが、この季節になると、マツバウンランの群生に彩られる。昨年よりも繁殖しているように見える。 ※岡山大学構内の花だよりのアルバム(追記更新型)をLife-Xに公開中です。随時追加していきますので、時たま覗いていただければ光栄です。 |
【思ったこと】 _c0424(火)選択はどこまで重要か?(2) 昨日の続き。 自由主義社会では、主体的な選択の機会が与えられることは最も大切な権利の1つであると見なされており、自由とはまさに選択できることであると見なされているようにさえ思える。 しかし、昨日も述べたように、選択というのは、実際に活動に取り組んでいる状態ではなくて、それより前の、どういう活動をしようかと悩んでいる時の状態で求められるものである。どういう活動を選択するのかはもちろん重要だが、本当に大切なのは、活動をどう継続させるのか、どう発展させるのか、というその後の段階にあるのではないか、というのが私の考えである。 それはそれとして、現実の世界ではしばしば、まやかしの選択機会というのがある。コンビニでもスーパーでも、あるいは、どこぞの有名衣料品店でもそうだと思うが、購入の際に我々が選択できるのは、お店のほうで品揃えされた商品の中からの選択に限られる。もちろんお店に寄っては取り寄せで注文できるかもしれないが、非常に手間がかかる。同じことはホテルのバイキング形式の食事についても言える。ここでも、何でも好きなものが食べられるわけではない。あくまでホテルのほうで用意した品目の中からしか選ぶことはできない。 「選択機会を与える」ということはしばしば、不平不満を抑えるツールとしても利用されている。独裁国家であれば、政治についての不平不満はすべて独裁者に向けられ、悪政が続けば暴動や革命へとつながる。しかし、民主主義国家となると、国会議員や大統領は、国民自らが選ばなければならない。その場合、政治への不平不満があっても、最終的には、選挙での有権者の選択が間違っていたからだという自己責任に帰することになる。また、国によっては、形式的には選挙を行うが、当選者は最初から決まっているという場合もある。それでも、とにかく選挙さえやっていれば、他国からの批判をかわすことはできる。 次回に続く。 |