| 【思ったこと】 _c0919(水)日本心理学会・第76回大会(8)高齢者の「孤立と孤独」を心理学から考える(8)指定討論(2)孤立は悪いことか
 
 昨日も述べたが、人生には、中年期〜老年期〜虚弱期といったライフステージがあり、「孤立と孤独」もそれぞれの段階別に分けて、メリットとデメリット、生活維持の困難度、必要な支援等を考えていく必要があるように思う。比較的若く健康な段階では、自立的な生活が十分に可能であり、悠々自適の満足な生活を続けているのであれば、地域の集団活動に無理やり誘うのはお節介というものだろう。「交流」や「絆」は決して悪いことではないが、度が過ぎると主体的な選択機会が奪われ、周囲に振り回されて自分を見失う恐れさえある。
 
 若者を含めて、社交性(外向性)を絶対善とするような風潮に対しては、TEDのプレゼンの中で、Susan Cainさんが以下のような主張をしておられる。(リンク先のトランスクリプトからの抜粋。)
 
高齢者の場合、上で主張されているような生産的な思考はできないかもしれないが、一人で過去をゆっくり回想する時間は必要であろうし、まもなくやってくる死に対して平静な心を保つよう静かに過ごすことも大切である。それらを望む高齢者があった場合には、単に放置するということではなく、それが実現できるよう、回想や読書しやすいツール、瞑想ができるような個人空間をできる限り保障していく必要があるとは思う。内向的であるというのは 社会的なものも含め 刺激に対して どう反応するかということです。外向的な人は多くの刺激を強く求めますが 内向的な人はもっと静かで 目立たない環境にいる方がやる気になり 生き生きとして能力を発揮できるのです。 いつもそうとは限りませんが 多くの場合そうだということです だからみんなが 持てる才能を 最大限に発揮できるようにする鍵は その人に合った刺激の中に 身を置くということなのです。
しかし ここで偏向【bias】の問題が出てきます。もっとも重要な組織である 学校や職場が 外向的な人向けに作られており 外向的な人に合った刺激に満ちているのです。さらに今の世の中に行き渡っている ある種の信念体系があって 「新集団思考」と私は呼んでいますが 創造性や生産性はもっぱら 何か社交的な場から生まれるのだと考えられています。
最近の教室はどんな風でしょう? 私が子どもの頃は 机が縦横に並べられていて ほとんどの作業を 個人個人で 自律的にやっていました。でも近頃の教室では 4人から7人ごとの島になっていて 子どもたちは無数のグループ作業を 次から次へとこなしています。思考力を単独飛行させて挑むべき 数学や作文でさえその調子で 子どもたちは委員会のように振る舞うことを期待されています。単独行動したり 1人で作業するのが好きな子は はみ出し者とか さらには 悪くすると 問題児と見られてしまいます。教師のほとんどは 理想的な生徒は内向的でなく 外向的なものだと思っています。 実際には内向的な方が成績が良く 知識があるにも関わらず・・・ 調査結果によるとそうなんです (笑) 。
同じことが職場についても言えます。多くの人が壁のない開放的なオフィスで 仕事をしています。絶えず雑音や 他人の視線にさらされています。そしてリーダーシップが必要な役職からは 内向的な人はいつも除外されています。
私が言いたいのは 社会として両者をもっとうまく バランスさせる必要があるということです。陰と陽のように両方必要なのです。これは特に創造性とか 生産性といった面で重要になります。極めて創造的な人々の人生を 心理学者が研究したところ 彼らはアイデアを交換し 発展させることに 優れている一方で 非常に強い内向的な面を持つことが分かったのです。
孤独が得てして創造性の 重要な要素になっているからです。ダーウィンは 1人で森を長時間散歩することが多く パーティの招待はきっぱり断っていました。ドクター・スースとして知られるセオドア・ガイゼルは あの数々の素晴らしい創作を カリフォルニア州ラホヤの自宅裏にある 孤独な塔のような書斎で生み出しました。彼は本当のところ 読者である小さな? 子どもたちに会うのを 怖れてさえいました。無口な自分は 陽気なサンタのような? 人を想像している子どもたちを きっとがっかりさせてしまうと思ったのです。最初のアップルコンピュータを作った ウォズニアックは 当時働いていたHPで いつも自室に1人閉じこもっていました。子どもの頃いつも家に閉じこもっているような 内向的な性格でなければ そもそも技術を極めることも なかっただろうと言っています。
現代心理学の知見に照らすなら これは不思議なことでも何でもありません。グループの中にいると 他の人の意見を 無意識にまねるようになってしまうのです どんな人を魅力的に感じるかというような 一見個人的で直感的なことでさえ それと自覚することなく 周りの人の見方に 追従するようになります。
グループというのは その場の支配的ないしは カリスマ的な人の意見に従うものです。優れた話し手であることと アイデアが優れていることの間に相関なんて 全くないにもかかわらず ? ゼロです。だから・・・ (笑) 一番良いアイデアを持つ人に従っているのかもしれないし そうでないのかもしれません。でも本当に運任せにしておいて良いのでしょうか? みんな1人になって 集団の力学による歪みを受けずに 自分独自のアイデアを考え出して それから集まって ほどよく調整された環境で話し合う方が ずっと良いのです。
これがすべて本当なら なぜ私たちはこれほど間違ったやり方をしているのでしょう? なぜ学校や職場をそんな風にしたのでしょう? 内向的な人が時々1人に? なりたいと思うことに なぜそんなに罪悪感を持たなければならないのでしょう? 1つの答えは文化の歴史的変遷の中にあります。西洋社会 とくにアメリカにおいては 常に「考える人」よりも 「行動する人」が好まれてきました。
これまでの話は 別に? 社会的スキルが重要でないということではありません。チームワークなんか捨ててしまえと 言っているわけでもありません。賢人を孤独な山頂に向かわせたのと同じ宗教が 私たちに愛や信頼を教えているのです。科学や経済といった領域で 私たちが今 直面している問題は 非常に大きく複雑で 解決するには大勢の人が 手を携え協力する必要があります。私が言っているのは 内向的な人がもっと自分に合ったやり方で できるようにすれば 彼らがそういう問題に 独自の解決法を考え出してくれる可能性が高くなるということです。
絶えずグループ作業するなんて狂ったことはやめましょう。すぐにでも (笑いと拍手) 。ありがとうございます (拍手)。はっきりさせておきたいんですが 職場では うち解けた カフェのようなおしゃべりによる 交流を促すべきだと思います。人々が会って 思いがけないアイデアの 交換をするようなやり取りです。これは内向的な人にも 外向的な人にも素晴らしいものです。でも職場にはもっとプライバシーが もっと自由が もっと自律性が必要です。学校も同じです 子どもたちに一緒に作業する方法を教えるべきですが 独りで作業する方法も教える必要があります。これは外向的な子どもにも重要です。独りで作業する必要があるのは それが深い思考の生まれる場所だからです。
荒野へ行きましょう。ブッダのように 自分の啓示を見つけましょう。みんな今すぐ出かけて 森の中に小屋を作り もう互いに話すのをやめましょうと 言うのではありません。そうではなく 気を散らすものから離れ 自分の思索に耽る時間を もう少し増やしましょうということです。
 
 
 次回に続く。
 
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