【思ったこと】 _c1214(金)“叱りゼロ”社会はなぜ実現できないのか?(2)“叱りゼロ”の論理
昨日の続き。議論を進める前に、ここでもう一度「叱る」とは何かを整理しておこう。辞書で「叱る」の意味を調べてみると、
- 『新明解』:相手の仕方をよくないといって、強く注意する。
- 『明鏡国語辞典』:目下の人の非を認め、それを改めさせようとして厳しく注意する。
- 『大辞泉』:目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。
- 『大辞林』:(1)(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める。
というようになり、おおむね、「目下の人に対してとる行動であること」、「具体的な問題点に対して、ネガティブな結果を与えること」を含んでいるように思われる。
これらは行動分析学の考えからは、もう少し細かく分類することができる。
- 嫌子出現による弱化:問題行動が生じた時に嫌子(叱責、お尻を叩くなど)を与える。
- 好子消失による弱化:問題行動が生じた時に好子を剥奪する(おもちゃを取り上げる、月々のお小遣いを停止、食事抜き、テレビ禁止など)
- 嫌子出現阻止による強化:望ましい行動が生じなかった時に嫌子を与えることで、将来の嫌子出現を回避するような行動を増やそうとする(宿題をしなかったことを罰することで、罰を回避するための勉強行動が強化される)。
- 好子消失阻止による強化:望ましい行動が生じなかった時に好子を剥奪することで、将来の好子剥奪を回避するような行動を増やそうとする(宿題をしないとお小遣いを与えない、勉強をしなかった日はテレビを禁止するなど)。
行動分析学の立場の人たちの一部が「叱りゼロ」を説く理由はだいたい以下の通りである。
- 問題行動が生じているというのは、その問題行動が強化されているからである。その強化原因を取り除かずに、無理やり罰的に弱化しても本質的な解決にはならない。罰を中止したとたん、当該の問題行動はふたたび活発に生じるようになる。
- よって、当該の問題行動を無くすには、その行動が強化されない(=消去される)ような環境を作ることである。
- いっぽう、望ましい行動が生じないというのは、当該の行動がうまく強化されていないためと考えられる。ステップをふんでうまく強化されるような道筋を作りさえすれば、罰的な統制を含む阻止の随伴性(嫌子出現阻止あるいは好子消失阻止)を用いなくても済むはずである。
- 罰的統制は、いっけん効果的であるように見えても、情動面でいろいろな弊害をもたらしやすい。
- 罰的統制を逃れる「抜け道」的行動を強化してしまう恐れがある。
- 罰的統制が有効であると主張する人が少なくないのは、罰を与える人自身において、罰的統制行動が【見かけ上の】即効的な「改善」によって強化されてしまうためである。例えば、厳しく叱りつければ、少なくともその人の目の前では問題行動は起こらなくなり、そうした見かけ上の改善が、叱りつけたという行動を強化してしまう。
次回に続く。
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