じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2月2日(木)

【思ったこと】
_60202(木)[心理]私はなぜ冬ソナにハマったのか(5)私の“冬ソナ第二部”公開

 今度の土曜日の上京の際、行き帰りに

●もうひとつの冬のソナタ チュンサンとユジンのそれから(ISBN:484701569X)
●冬のソナタに恋した人へお願い!これだけは知っておいて(ISBN:4766208625)

という2冊を読もうかと思っている。そこでこれらの影響を受けて考えが変わる前に、まず、自分のオリジナルの「冬ソナ第二部」のシナリオをこちらに公開することにした。

 今回のテーマに限らないのだが、私は何かの問題について考える時には、まず、それまでに得た情報だけをもとに自分だけの力でオリジナルの考えをまとめることにしている。その上で関連資料を徹底的に集め、先に作り上げた自家製モデルと比較対照し、自分一人では考えが及ばなかった点を補う。 このプロセスをおろそかにすると、どこが自分のオリジナルの考えであったのか、その後何かに影響されたものなのか区別がつかなくなり、自分を見失って他者の考えに翻弄されてしまう恐れがある。




 さて、今回ハマっている「冬ソナ」であるが、何度かDVDを見直して冷静に考えてみると、ユジンとチュンサンは実はそれほど大した恋愛をしていなかったことに気づく。

 「冬ソナ」は永遠の愛を描いたドラマであるなどと言われるが、実際は、結婚の枠組み作りをめざすシナリオになっている。結婚の枠組み作りが外圧や偶発的要因で妨害されそれを克服して愛を貫こうとするため、観客はそこに「真剣で一途の愛」があると錯覚してしまうのである。

 ところが交際が妨害を受けない状況になると、2人は戯れ合い程度のことしかできない。高校時代でも、チュンサンがユジンから過去の思い出話を聞いて過去の記憶を取り戻そうとしている時でも、また2人で海に泊まりに行った時もみなそうであり、雪をぶつけあったり、追いかけっこをすることぐらいしかできなかった。

 こうしてみると、ユジンとチュンサンの恋愛は、「向かい愛」、「見つめ愛」の域を出ていない。2人が協力しあって、もっと別の大きな困難を克服し何かを達成するというような「愛」がこれから先に展開しなければならない。




 このドラマではもう1つ、チュンサンとカン・ミヒとの母子関係のこじれが未解決のままであった。今回の私の試みではこの点も解消したつもりである。

 ユジンを演じたチェ・ジウさんは2006年1月現在、輪舞曲−ロンド−「哀しい約束〜はじめての涙…」というドラマに出演されているようだが、せっかく日本で仕事をされるのであれば、まずは、「冬ソナ第二部」で女性としての強い生き方を演じてほしかった。文才が無いので私が勝手に作った第二部のシナリオが採用されるとは到底思えないが、北海道でロケをやれば韓国からの観光客の人気スポットにもなるし、何よりもドラマを通じて日韓共通の感動を実現させることができる。1月30日の日記でも書いたが、私は、国際交流は、まずは共通の感動体験、そして、共同協力関係の推進、最後は、障壁の克服という過程で構築されていくべきものであると考える。それを経ずに、チェ・ジウの作ったキムチは辛すぎて日本人の口には合わないというようなことを強調されても、ユジンやチュンサンはますます遠い存在に追いやられてしまうように思う。





 なお、私は、シナリオづくりには2つのタイプがあると思っている。

 1つは、今回のようにあくまで、自分自身を納得させることを目的としたもの。もう1つは、プロが他の人を楽しませる目的で作り上げるものである。

 後者の場合には、ストーリーの途中で、観客をある程度ハラハラ、ドキドキさせ、最後はホッとさせるというテクニックが必要となる。最初から最後まで順風満帆、平穏無事であるようなストーリーでは誰も感動しない。また、連続テレビドラマの場合には視聴率を維持するために毎回謎を残して続きを見たくなるように展開させる必要があるし、俳優の人気を高めて、ポスターやCD、関連グッズなどを商品として売り出すための配慮も必要となってくる。

 いっぽう、自分を納得させるためのシナリオでは、とにかく、種々の出来事の関連づけ、意味づけに成功すればそれで完結。余計な妨害要因を設定して話を複雑にする必要は全くない。第三者には面白くない内容になるが、個人として納得できればそれでよいと思っている。