じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 130527(月)ダイバージョナルセラピーの最近の話題(2) 昨日の続き。 プレゼンの中に関連して、利用者の個々のニーズにどう応えるか、集団行事に参加しない利用者への個別的対応、「集団か個別かではなく、集団の中での個別化ではないか」といった議論が話題となった。 高齢者ケアの基本は個の尊重にあると思っているが、現実には、スタッフの数が限られている中で、集団行事への参加が半強制され、参加を断った利用者はそのまま放置されるということが少なくないようである。 あくまで主観だが、集団行事への参加を断る利用者の中には「こんなことやっても意味がない、時間のムダだ」と考えている方が少なく無いように思う。というか、私などは、子どもの頃から、運動会や合唱といった集団行事が大嫌いであった。大人になってからはそういう行事への参加を強制されなくても済むようになったのでホッとしていたのに(←厳密に言うと、町内会主催行事の役回りが回ってくることはあるが)、高齢になって残り少ない人生を有効に過ごそうと思っている時に、慰めモノ的なイベントに駆り出されてその一日を拘束されるということは耐えがたいことである。 ではなぜ、同じイベントを楽しく過ごせる人と、時間のムダだと感じる人、という違いが出てくるのだろうか。社交性の違いだ、というように性格の違いに原因を帰属させる考えもあるが、往往にして循環論(トートロジー)に陥りやすい。そうではなくて、行動に伴う結果(好子)の「意義づけ」の違いが、集団行事に参加することの楽しみの程度にも反映しているのではないか思われる。 「意義づけ」というのは行動分析学的らしくない言葉だが、要するに、獲得された好子がその場限りの刹那的なものか、それとも累積効果をもたらすのか、また、自分個人だけが獲得する好子であるのか、それとも、結果として周囲や後世の人々にも有用な好子となりうるのか、といった違いであり、そうした長期的な結果(あるいは外の世界にも及ぶ結果)との関連づけ行動がどの程度起こっているかということを意味している。例えば、同じ「歌を歌う」という行動にしても、個室カラオケで一人で歌う場合と、利用者さんたちが一緒に歌う場合、さらにコンクール出演のために歌う場合、宗教的な目的(賛美歌)で歌う場合では、歌うという行動に伴う結果の質が異なっている。折り紙で作品を作る行動の場合も、作品を自室に飾る場合と、展覧会に出品する場合、あるいは別の施設等に寄贈する場合では、制作活動に伴う結果の質は大きく異なる。 次回に続く。 |