じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 中国地方は、5月27日に梅雨入りが発表された。気象庁統計によれば、平年より11日早い。ちなみに、最も早い梅雨入りの記録は1963年の5月8日頃となっている。また、平年の梅雨明けは7月21日頃となっているようだが、今年は梅雨入りばかりでなく、梅雨明けも早いのだろうか。

 もっとも、岡山県南部は5月27日の雨量はゼロ。28日も、朝から雨がぱらついていたものの、降水量0.5ミリ以上が記録されたのは28日22時以降であった。5月29日までの24時間積算雨量は、5.5ミリ。周辺の広島市75.5ミリ、山口市89.0ミリ、高知市111.0ミリに比べると極端に少ない。いっぽう、高松市は0.0ミリで記録上はまだ雨が降っていないことになる。

 写真は、雨と強風(28日の最大瞬間風速は14.4メートル)で落花したセンダンの花。花びらの絨毯が出現した。まだ枝には花がいっぱい残っているので、いましばらく、こういう光景を楽しめそうである。



2013年05月28日(火)

【思ったこと】
130528(火)ダイバージョナルセラピーの最近の話題(3)

 昨日の日記で、
 行動に伴う結果(好子)の「意義づけ」の違いが、集団行事に参加することの楽しみの程度にも反映しているのではないか思われる。
 「意義づけ」というのは行動分析学的らしくない言葉だが、要するに、獲得された好子がその場限りの刹那的なものか、それとも累積効果をもたらすのか、また、自分個人だけが獲得する好子であるのか、それとも、結果として周囲や後世の人々にも有用な好子となりうるのか、といった違いであり、そうした長期的な結果(あるいは外の世界にも及ぶ結果)との関連づけ行動がどの程度起こっているかということを意味している。
と述べた点を補足しておく。

 この日記や拙著で何度も述べているように、スキナーは、幸福(生きがい)を
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. 幸福とは、好子を手にしていることではなく、好子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。【佐藤方哉訳を長谷川が一部改変】
と定義した。また、長谷川(2012)はこれに関連して、
  • まず、日本語訳では「幸福とは○○なのです」と幸福を定義しているように読めるが、英語原文では「it lies in」、つまり、「その中に見いだされる」となっており、幸福実現の十分条件ではなく必要条件のことを言っているという点である。
  • 第2に、幸福が見いだせるかどうかを決めるのは行動の種類ではなく、行動がどういう形で強化されているのか、というプロセスにあると指摘している点である。つまり、行動そのものは中性的であって、アプリオリに「善き行動」、「それ自体が幸福な行動」、「高級な行動」などが決まっているのではない。であるからして、例えば利己的利益を追求す る行動と、献身的に世間に尽くす行動を比較した場合、世間一般では後者のほうを良しとするであろうが、上掲の必要条件の範囲では両者を差別化する根拠はどこにもない。同様に、日々刹那的に快楽を求める行動と、努力の積み重ねにより偉大な目的を達成する行動の間にも本質的差違は存在しない。それらの区別が必要であると主張するためには別のところで根拠を探す必要がある。
  • 第3に、幸福は獲得した結果の種類や大きさによって決まるのではないという点である。釣りを例にとれば、魚の獲得だけが目的であるなら魚屋さんで買うこともできるがそれでは幸福にはなれない、あくまで釣り糸を垂れ、結果として魚がかかったがゆえに釣りをする中に幸福が見いだされるという意味である。
  • 第4に、「好子が結果としてもたらされたがゆえに行動する」という言明には、行動も好子獲得も目的に含まれているという点である。「行動療法」ではしばしば、好子は行動修正の手段として一時的に使用する手段と見なされがちであるが、ここではそうではない。行動することはもちろん、好子が実際に獲得されるところまでが目的となっているのであ る。
と論じた。ここで取り上げている問題は、上掲の第2の点に関係している。

 上掲の第2の点は、「例えば利己的利益を追求する行動と、献身的に世間に尽くす行動を比較した場合、両者を差別化する根拠はどこにもない。同様に、日々刹那的に快楽を求める行動と、努力の積み重ねにより偉大な目的を達成する行動の間にも本質的差違は存在しない。」と論じているが、これはあくまで、個人差のことを述べているのであって、要するに、「利己的な人もいれば、世間に尽くす人もいる。刹那的な快楽を求める人もいれば、何十年の先の「夢」の実現のために日々努力する人もいる。しかし、それらの違いについて、何が善で何が悪か、とか、何が高級な喜びで何が低級な喜びかということは、上掲の議論の枠組では結論が出せない。極論すれば、「個人の自由。勝手にや〜れ〜ば〜」ということになる。また、高齢者施設での集団イベント、例えば、カラオケとか集団ゲームのようなものは、世間に尽くすような結果は何も生み出さないし、長期的な努力の積み重ねがもたらすような累積的成果を得るものでもないので、人によっては、「こんなことをしても時間のムダ。余生はもっと価値のあることに使いたい」と、否定的に捉えることになる。スキナーは「好子が結果としてもたらされたがゆえに行動すること」が幸福をもたらすとしたが、これはあくまで必要条件であって十分条件ではない。どんなに楽しい集団行事を準備しても、それを時間のムダだと捉える人がいても、決して間違っているとは言えない。

 もっとも、だからといって、結果の質(影響の及ぶ範囲や時間の違い)についての価値観を固定する必要はない。例えば、利己的利益を捨てて他者に尽くすという人は、本質的には「利己的」であるという可能性がある。要するに、自分が獲得したすべての利益、財産、成果は、自分の死によってすべて失われてしまうが、子孫、あるいは他者が役に立つような成果を残しておけば、自分が死んでもそれらは決して失われない。自分の努力の成果が死によって完全消失することを恐れる人は、それを失うまいとして(好子消失阻止の随伴性による強化)、なんとかして、その成果を記録に残したり、他者に還元しようとしたりする。それらは、本質的には自分のためであって利己的と呼べないわけでもない。

 高齢者、とりわけ、何か大きな仕事で成果を上げたような人は、集団行事や刹那的な娯楽で時間を費やすよりは、何らかの形で、その経験を次世代に伝えようと願っているはずである。認知症が進んでもその気持ちに変化が無ければ、それを尊重して、何らかの形でそのお手伝いをするべきであろう。

 これに関連して、傾聴ボランティアというものがあるという。話し相手のいない高齢者にとって、話を聞いてくれる人がいることは大きな生きがいになるとは思う。もっとも、私のようなひねくれた人間から言えば、聞きたくない話をわざとらしく聞いてくれるだけであったら、そういうサポートはお断りである。普段の会話でもそうだが、私の面白くもない話を義理で聞いてくれたり、わざとらしく相づちをうったり感動してみせたりするのはいっさいお断りである。それよりも、例えばWebコンテンツを増やすお手伝いをしてもらったほうが遥かにありがたい。このWeb日記などもまさにそうだが、私は別段、ここにあるようなコンテンツ(本文や写真等)を義理で閲覧してもらおうとは思わない。いつか、どこかで、誰かの役に立ってもらえばそれはそれで嬉しいが、それはあくまで結果としてそうなるかもしれないというだけのことである。高齢者施設の利用者さんの中にも、私と同じ考えを持った方がおられるのではないかと思ってみたりする。

 次回に続く。