じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 130528(火)ダイバージョナルセラピーの最近の話題(3) 昨日の日記で、 行動に伴う結果(好子)の「意義づけ」の違いが、集団行事に参加することの楽しみの程度にも反映しているのではないか思われる。と述べた点を補足しておく。 この日記や拙著で何度も述べているように、スキナーは、幸福(生きがい)を Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. 幸福とは、好子を手にしていることではなく、好子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。【佐藤方哉訳を長谷川が一部改変】と定義した。また、長谷川(2012)はこれに関連して、
上掲の第2の点は、「例えば利己的利益を追求する行動と、献身的に世間に尽くす行動を比較した場合、両者を差別化する根拠はどこにもない。同様に、日々刹那的に快楽を求める行動と、努力の積み重ねにより偉大な目的を達成する行動の間にも本質的差違は存在しない。」と論じているが、これはあくまで、個人差のことを述べているのであって、要するに、「利己的な人もいれば、世間に尽くす人もいる。刹那的な快楽を求める人もいれば、何十年の先の「夢」の実現のために日々努力する人もいる。しかし、それらの違いについて、何が善で何が悪か、とか、何が高級な喜びで何が低級な喜びかということは、上掲の議論の枠組では結論が出せない。極論すれば、「個人の自由。勝手にや〜れ〜ば〜」ということになる。また、高齢者施設での集団イベント、例えば、カラオケとか集団ゲームのようなものは、世間に尽くすような結果は何も生み出さないし、長期的な努力の積み重ねがもたらすような累積的成果を得るものでもないので、人によっては、「こんなことをしても時間のムダ。余生はもっと価値のあることに使いたい」と、否定的に捉えることになる。スキナーは「好子が結果としてもたらされたがゆえに行動すること」が幸福をもたらすとしたが、これはあくまで必要条件であって十分条件ではない。どんなに楽しい集団行事を準備しても、それを時間のムダだと捉える人がいても、決して間違っているとは言えない。 もっとも、だからといって、結果の質(影響の及ぶ範囲や時間の違い)についての価値観を固定する必要はない。例えば、利己的利益を捨てて他者に尽くすという人は、本質的には「利己的」であるという可能性がある。要するに、自分が獲得したすべての利益、財産、成果は、自分の死によってすべて失われてしまうが、子孫、あるいは他者が役に立つような成果を残しておけば、自分が死んでもそれらは決して失われない。自分の努力の成果が死によって完全消失することを恐れる人は、それを失うまいとして(好子消失阻止の随伴性による強化)、なんとかして、その成果を記録に残したり、他者に還元しようとしたりする。それらは、本質的には自分のためであって利己的と呼べないわけでもない。 高齢者、とりわけ、何か大きな仕事で成果を上げたような人は、集団行事や刹那的な娯楽で時間を費やすよりは、何らかの形で、その経験を次世代に伝えようと願っているはずである。認知症が進んでもその気持ちに変化が無ければ、それを尊重して、何らかの形でそのお手伝いをするべきであろう。 これに関連して、傾聴ボランティアというものがあるという。話し相手のいない高齢者にとって、話を聞いてくれる人がいることは大きな生きがいになるとは思う。もっとも、私のようなひねくれた人間から言えば、聞きたくない話をわざとらしく聞いてくれるだけであったら、そういうサポートはお断りである。普段の会話でもそうだが、私の面白くもない話を義理で聞いてくれたり、わざとらしく相づちをうったり感動してみせたりするのはいっさいお断りである。それよりも、例えばWebコンテンツを増やすお手伝いをしてもらったほうが遥かにありがたい。このWeb日記などもまさにそうだが、私は別段、ここにあるようなコンテンツ(本文や写真等)を義理で閲覧してもらおうとは思わない。いつか、どこかで、誰かの役に立ってもらえばそれはそれで嬉しいが、それはあくまで結果としてそうなるかもしれないというだけのことである。高齢者施設の利用者さんの中にも、私と同じ考えを持った方がおられるのではないかと思ってみたりする。 次回に続く。 |