じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 クスノキの花びらの絨毯。昨日の日記のセンダンの落花に比べるとさらに地味である。もっとも、クスノキの茶色っぽい花びらを金箔、センダンの落花を銀箔に見立てれば、この時期の「きんさん、ぎんさん」になる。

 クスノキは地味な常緑樹だが、写真下のように4月下旬には古い葉を落とす(「春落葉」)。歳をとってくると、新緑や満開の花よりも、落葉や落花に趣を感じるようになる。




2013年05月29日(水)

【思ったこと】
130529(水)ダイバージョナルセラピーの最近の話題(4)

 昨日までの日記で、生きがいの基本は「行動し、結果としてそれが強化されること」にあるが、それに加えて、結果の質(影響の及ぶ範囲や時間の違い)についての意義づけや価値観が影響を及ぼしている可能性について示唆した。例えば、世の中の役に立つことに価値を見出している人にとっては、遊んで楽しむというような行事は時間のムダにしかうつらない。そういう人を無理やり誘って笑ってもらったとしても、本質的な生きがいには結びつかない。

 もっとも、結果の質の意義づけというのはしょせん主観的なモノであって、客観的には何の役に立っていないような行動であっても、本人が「これこそ世間のためになる」と思い込んでいれば(=ルール支配行動)、それだけで十分、強化的となる。宗教行為などもみなそうであって、お参り、お経、礼拝などの行動をどう意義づけするのかというのは当人の信心のみに依存している。客観的なエビデンスを必要とするものではない。

 また昨日も述べたが、利己的利益を捨てて他者に尽くすという人は、本質的には「利己的」であるという可能性もある。自分の死によって、長年の苦労で蓄積した資産がすべて消え去るというのは耐えがたいことなので、それを避けるために、子孫や世間に役に立つような贈与、寄附を行うのである。

 このほか、余計なモノをすべて捨てて「悟り」の境地に達しようという人もいるだろう。資産が多ければ多いほど、それが失われないために(=好子消失阻止)、さまざまな手立てが必要となる。モノとの関わりを最小限に絞れば、そういう余計な心配をしなくても済む。

 なお、私の趣味の1つに園芸活動があるが、これは客観的に考えれば、個人が個人の楽しみのために花を育てているという利己的行動の域を出ない。しかし、草花の世話をするということは、地球上の生命体の1つである植物に尽くしていると言えないこともない。植物はお礼は言えないが、代わりに綺麗な花を咲かせてくれる。もちろん、ボランティアで公共花壇の世話をするとなると世間のために尽くす行動と言えないこともないが、これも主観であって、花に興味の無い人からは、世間の役に立たない時間のムダであると見なされてしまうに違いない。


 次回に続く。