じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
5月31日は世界禁煙デーであったが、岡大構内では各所で、吸い殻ポイ捨てが見られた。これらの場所はそもそも指定喫煙場所ではなく喫煙は禁止されている。禁煙エリアでも人に見つからなければこっそり吸ってしまうという行為は、警察に見つからなければモノを盗んでもいいというコソ泥と同罪だ。加えて、喫煙のあとに吸い殻をポイ捨てするような者は、大学人として、というか人間として失格である。なお、大学構内で見つけた違反行為については、岡大敷地内喫煙ゼロをめざす安全衛生委員活動日誌をご覧いただきたい。 写真は、5月31日〜6月1日に撮影した吸い殻ポイ捨て状況。写真左上は文法経3学部講義棟西側(グラウンド隅)。残りは、座主川沿いの遊歩道。空気が乾燥してくると、遊歩道でのポイ捨ては落ち葉に燃えついて山火事の原因になる。実際、何年か前に、津島北キャンパス南西角のあたりの茂みでボヤが発生したことがあった。 |
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【思ったこと】 130601(土)ダイバージョナルセラピーの最近の話題(7)看取りの問題 今回の発表会では、入居者の看取りに関する事例が複数紹介された。入居者の中には何らかの事情で、家族がなかなか面会に来られないケースがある。その場合、施設スタッフが看取りに立ち会うということもあり、また、ネットで「看取りケア」のキーワードで検索したところ、 など、いろいろな資料が92万1000件もヒットした。 私自身は、昨年7月に、「おひとりさまの最期」講演会(2013年7月19日の日記とその翌日以降を参照)でこの方面についてお話を伺ったことがあった。 もっとも、私自身の人生観から言えば、「看取り」とか「最期」というのは、人生においてそれほど大きな意味をなさない。人生を鉄道の旅に喩えるならば、途中のさまざまな駅で下車していろいろな体験をするのが人生であって、その終着駅がどういう場所であるかで、途中の旅の価値が変わるわけではない。確かに、心理学では、「ピーク・エンドの法則」というのがあって、過去の経験についての評価は、終わり方次第で大きく変わるものであることが示されているようだが、そもそも人生の最期の瞬間は人生全体を振り返るほど意識鮮明とは思えないし、また、過去の経験に良き思い出がいっぱいあれば、最期の瞬間が多少不幸であってもそんなに後悔するものではないと思う。であるからして、例えば山奥で遭難して誰にも看取られない状態で最期を迎えたとしても、また、最期の挨拶を交わすことができなかったとしても、別段どうということはない。あまり丁寧に看取りケアをしてもらうと逆に、「もういいよ。生きるためには介護をお願いしなければならなかったけれども、自然に死んでいくだけなら誰も助けも要らないから。私のことは放っておいてよい。幸せに生きなさい。」と言いたくなってしまう。 ま、私自身は、天国も地獄もいっさい信じていないので、「死」は「無に帰すこと」であって、それ以上の意味もそれ以下の意味も持たないので気楽に考えることができる。もちろん世の中には、いろいろな宗教や思想に基づいた死生観があるだろうから、それに対応した最善の看取りケアを構築する必要はあるとは思うけれど...。 次回に続く。 |