じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 7月15日の日記に掲載したキビ畑。その後、雨がよく降ったこともあり、写真のようにすくすくと伸びた。もっとも、昨日の大雨で、一部が倒れてしまっている。


2013年08月5日(月)

【思ったこと】
130805(月)日本行動分析学会第31回大会(11)「罰無き社会」を再考する (2)

 昨日に続いて、7月28日(日)午後に行われた、 自主企画シンポジウムII:「罰無き社会」を再考する についてメモと感想。

 話題提供の2番目の杉山尚子氏は、スキナーが1979年に慶應義塾大学名誉学位授与記念講演として行った、

The Non-punitive society.

の概要や、なぜスキナー自身の手によって論文化・公刊されなかったのか、などの経緯についてお話しされた。上掲の日本語訳つきテキストは、『行動分析学研究』、1991年第5巻に掲載されており、今回の学会創立三十年記念グッズUSBにも保存されているとのことであった。なお、この文献の電子版は、電子ジャーナル契約大学であればオンラインでも閲覧できる見込み。また、英語版だけでよければ、こちらから無料でダウンロードできる。ちなみに、「罰無き社会 The Non-Punitive Society」で検索すると、なぜか「じぶん更新日記・総合index」なるものが上位でヒットするようである。

 さて、この講演録がなぜ論文化されなかったのかという点であるが、スキナーがこの後、罰的統制否定論に対して、ペシミスティックな考えに陥っていたという説もあるが、生前の佐藤方哉氏によれば、そのような証拠はなく、決め手となるような理由は見当たらない(つまり、よく分からない)というのが本当のところであるようだ。

 杉山氏は続いて、この講演録の概要、罰という用語が、嫌子そのものではなく、嫌子消失の随伴性による強化、あるいは嫌子出現阻止の随伴性による強化の弊害として語られている点を強調された。また、「Punishment」と「Punisher」は区別する必要があり、「Reinforcer」や「Punisher」を「好子」、「嫌子」というように、強化や罰(弱化)から切り離した訳語に変更した経緯が語られた。

 このほか、いくつかの論点が挙げられたが、その中で、マロットの主張「行動修正で用いる好子出現の強化(モドキを含む)は、理論的にはすべて、嫌子消失/嫌子出現阻止」は大きな論点になるように思う。じっさい、何かの目標に向かって努力を重ねるような行動は、「段階的な達成の確認という好子出現(「きょうはここまで進んでよかった」)」によっても強化されているが、実際には、「毎日の課題をサボる」こと自体が嫌子(よって、嫌子消失のために課題をきっちりこなす)、「課題をさぼると目標が達成できない」という嫌子の出現阻止の随伴性が大きな力になっているように思う。もし、それが、「段階的な達成の確認という好子出現」 だけしか機能しないと、競合する他の行動機会による誘惑や、行動遂行に伴う時間的身体的コストなどの影響により、課題遂行は先延ばし(Procrastination)されてしまう可能性が大きいと思う。

 なお、元の「The Non-punitive society.」の講演録であるが、私自身は、これは単に罰的統制の弊害や無効性を強調したものではなく、もっと積極的に、幸福とは何か、また平和で幸福な社会はどのような随伴性によって維持されなければならないのかを論じた内容であると受け止めている。例えば、講演録の中でスキナーは、
Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement.
というように、人類の最大の権利は、【能動的に】行動し、強化されることであると指摘している。また、私がしばしば引用しているように、幸福とは、少なくとも幸福の必要条件は、その最大の権利を遂行する中で生まれるものである。この考え方は、現代社会全般を考える上でも、高齢者の生きがいを考える上でもきわめて大切であると思う。
In a sense the search for a non-punitive society is nothing more than the traditional search for happiness. The experimental analysis of behavior helps in that search by identifying the essential conditions of happiness. When we act to avoid or escape from punishment, we say that we do what we have to do, what we need to do, and what we must do. We are then seldom happy. When we act because the consequences have been positively reinforcing, we say that we do what we like to do, what we want to do. And we feel happy. Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. The rich soon discover that an abundance of good things makes them happy only if it enables them to behave in ways which are positively reinforced by other good things.





 話題提供の3番目の奥田健次氏は、弱化や強化は、操作ではなく現象であると論じられた。要するに、好子とか嫌子というのは、刺激や出来事であり、それを出現/消失させるのが操作、そして、その結果として生じるのが強化や弱化といった現象というわけである。これはまことに正しいご指摘であり、我々はしばしば、「好子出現の強化随伴性」とか「嫌子出現の弱化随伴性」などという表現を使ってしまうが、正しくは、「好子出現の随伴性がもたらした強化」あるいは「嫌子出現の随伴性がもたらした弱化」などと表現するべきであろう。

 このあと、「好子消失の弱化」の有効性や、「タイムアウト」の実践指導、「阻止の随伴性がもたらす強化、弱化」などについて、意義深い主張を展開された。スライドに一部誤植があってわかりにくいところもあったが、奥田流の好子消失阻止がもたらす強化というのは、古典的なテレビゲーム「テトリス」のようなものかもしれないとふと思った。要するに、テトリミノが上から次々と落下していくなか、何も行動しなければ、やがて、画面いっぱいにテトリミノが詰まってゲームオーバーになってしまう。しかし、それを回転させたり移動させたりして、横一列を隙間の無い状態に詰め込めば、その行が消えて、さらにゲームを続けられるのである。この場合は、回転や移動という行動は、好子消失阻止の随伴性により強化されるし、また、そういう適切な行動が続けられる限りは、得点はどしどし増えていくのである。

 もう1件、4番目として、犬のしつけに関する山本史子氏の話題提供があったが、対象が動物ということもあって、他の話題提供とは咬み合わない(←ダジャレのつもり)ようにも思えた。

 ということでこのシンポのメモ・感想を終了させていただくが、冒頭の島宗氏の企画趣旨説明が「体罰」という身体的嫌子使用の弊害を説いていたのに対して、そのあとの議論はどちらかというと、「好子出現がもたらす強化」以外の随伴性、すなわち、「嫌子出現がもたらす弱化」、「嫌子消失がもたらす強化」、「好子消失がもたらす弱化」、「好子出現阻止がもたらす弱化」、「好子消失阻止がもたらす強化」、「嫌子出現阻止がもたらす強化」、「嫌子消失阻止がもたらす弱化」といった随伴性の効用や弊害を論じており、論点がいまいち収束しちえないようにも思えた。体罰は確かに重要な社会問題であるが、体罰を全面禁止しても「罰なき社会」は実現しないという点を確認しておく必要があるだろう。