じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
夕食後、いつもより早めに大学構内を散歩したところ、一般教育棟構内・陸上競技場の夜間照明が点灯されていて(たぶん21時消灯)、アメフトの練習が行われていた。夜間照明点灯時は周辺の木々も照らされて暗闇の中で浮き上がってみえる。写真上は今回、写真下は昨年10月の同じアングルからの写真。なおこれらの木々は、プラタナス(モミジバスズカケ)、アオギリなど。今年の春に完了した大規模環境整備工事で切り倒されずに残った4きょうだい。 |
【思ったこと】 131003(水)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(26)自己決定権、選択結果、選択された行動への強化 昨日の日記で、 シュワルツの本は、どちらかと言うと「モノ」や「環境」に関する選択ばかりが論じられていて、選択の結果として可能となる行動をどう継続・強化するのかという視点が欠けているような気がしないでもない。と述べ、さらに 高齢者に「どれがいいですか?」という選択機会を提供する場合、どれが選ばれてもそのあとで可能な行動がちゃんと強化されなければ意味がない。と主張した。今回のそのことについて補足させていただく。 選択機会があるということは、形式上は、自己決定権につながる。こちらの論文に、「自己決定は、身体的自立、経済的自立、精神的自立に加え人格的自立が本来のノーマライゼーション」と記されているように、「人格的自立を確保するために守られなければならない」という理由から自己決定権を重視する動きがある。また、夢ナビのこちらの資料では、「高齢者が自己決定することの意味」として、 1.疾病や障がいなどにより自由、安らかさ、自分らしさ、尊厳などが損なわれやすい高齢 者にとってといった点が挙げられていた【箇条書きの丸付き数字等は長谷川のほうで改変】。 私自身ももちろん、自己決定権自体の大切さは理解しているし、それが奪われそうな状況があれば何とでもしてその権利を守るべきだという立場にはあるが、だからといって、自己決定の機会さえ増やせばそれだけで高齢者のQOLが向上するとは思っていない。この連載で取り上げている、シュワルツの『選択のパラドックス』というのもまさにそのことを言っているのであって、じっさい、第2章のあたりでも、ガワンデ[※]の孫引きながら、Katz(1984)の『The Silent World of Doctor and Patient』に言及し、患者の自己決定の困難を論じていた。 [※]Gawande, A. (1999). Whose Body Is It Anyway? New Yorker, October4, p.84 自己決定というほど大げさではないにせよ、例えば、レクリエーション場面で、
もとの話に戻るが、自己決定機会が本当にQOL向上に役立っているのかどうかを検証することはなかなか難しい。例えば、 ●本日の昼食は和食にしますか、洋食にしますか? というようなメニュー選択機会は、「本日は和食をどうぞ」と勧めるよりも多くの選択肢を提供してくれる。しかし、それによって、満足度が高まったからといって、その原因が、
じっさい私なども、国際線で機内食が提供される時に「Beef or Chicken?」などと聞かれることがあるが、【エコノミークラスの】機内食はもともとマズイし、日本時間では真夜中になるような満腹時に提供されることもあって、機内食メニューの自己決定機会自体が喜びをもたらすことは全くない。高齢者施設の食事提供場面においても、二種類以上のメニューにするか、あるいはいっそのことバイキングスタイルにしてしまえということに気を配るよりは、1種類であっても真心のこもった工夫をこらした料理が出されることのほうが喜びになるかもしれないとは思う。 次回に続く。 |