じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
モーサテで毎週火曜日にビジネス書ランキングが発表されているが(紀伊國屋書店調べ)、この1ヶ月ほど、その1位と2位を『幸せになる勇気』と『嫌われる勇気』が独占している。浮き沈みの激しいビジネス書出版界にあって、これほどのトップ独占を続けているのは珍しい。 |
【思ったこと】 160328(月)行動分析学における自己概念と視点取得(11)自然科学における私的な出来事(2) 昨日引用したSkinner(1945)と同様、Skinner(1953)の第17章においても、私的出来事の例として、歯痛が挙げられている。 特定の歯において生じる歯痛は、当人以外には誰も経験できないことであり、明らかに私的出来事と言える。但し、私的出来事であるからと言って、特別な特性を持っているわけではない。問題は、他者あるいは言語コミュニティに、それをどう伝えるかということである。 ここでスキナーは、「赤い色が見えた」といった出来事を例に挙げている。この情報が他者にうまく伝わるのは、共通する感覚器官を持ち、かつ、色彩のカテゴリーを共有している場合に限られる。スキナーも指摘しているように、色覚障がいを持つ人にはこの情報は伝わらない。また、ヒンバ人のように異なる色彩のカテゴリーを有するとされている人たちとのあいだで、どういう色が見えたのかを言語だけで伝えるのはなかなか難しい。 こうした問題は「客観的とは何か」という問題にも関わってくる。「客観的=自分だけでなく、だれの目にもそのように見えるようす。」と定義している国語辞典もあるが、誰の目にもそのように見えるかどうかは甚だ疑わしい。じっさい、虹の色数のように、国や文化によって異なる数にカテゴリー分けされている場合もあるし、共感覚のように、特定の人にだけ見える色というのもある。 けっきょく、この問題をつきつめていくと、我々が当たり前に捉えているような「公的出来事」というのもその存立があやしくなってくる。この問題はおそらく、世界仮説にもつながってくる。 さて、話が大きくなりすぎたのでもう一度元に戻し、どういう手段を使えば他者に私的出来事を伝えることができるのだろうか、について考えてみることにしたい。このことについては、『言語行動』(Skinner, 1957)により詳しい記述がある。その内容は、オドノヒュー・ファーガソン(2005)は以下のようにまとめられている【箇条書きは長谷川による改変】。 Skinner (1957) suggested five ways in which the verbal community teaches its members to tact private events:ここでもまた、隠喩や換喩が重視されている点が興味深い。もっとも、スキナーの1950年代の論考では、「視点取得(視点取り、Perspective-taking)」という観点はまだ曖昧であった。幼児期、自分の私的出来事を他者に伝えるという行動が発達していくためには、単に語彙を増やすだけではダメで、人称を区別した表現を使い分けること、またそれが、生育環境の中で強化されていくことが必要であろう。 次回に続く。 |