じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2016年03月28日(月)


【思ったこと】
160328(月)行動分析学における自己概念と視点取得(11)自然科学における私的な出来事(2)

 昨日引用したSkinner(1945)と同様、Skinner(1953)の第17章においても、私的出来事の例として、歯痛が挙げられている。

 特定の歯において生じる歯痛は、当人以外には誰も経験できないことであり、明らかに私的出来事と言える。但し、私的出来事であるからと言って、特別な特性を持っているわけではない。問題は、他者あるいは言語コミュニティに、それをどう伝えるかということである。

 ここでスキナーは、「赤い色が見えた」といった出来事を例に挙げている。この情報が他者にうまく伝わるのは、共通する感覚器官を持ち、かつ、色彩のカテゴリーを共有している場合に限られる。スキナーも指摘しているように、色覚障がいを持つ人にはこの情報は伝わらない。また、ヒンバ人のように異なる色彩のカテゴリーを有するとされている人たちとのあいだで、どういう色が見えたのかを言語だけで伝えるのはなかなか難しい。

 こうした問題は「客観的とは何か」という問題にも関わってくる。「客観的=自分だけでなく、だれの目にもそのように見えるようす。」と定義している国語辞典もあるが、誰の目にもそのように見えるかどうかは甚だ疑わしい。じっさい、虹の色数のように、国や文化によって異なる数にカテゴリー分けされている場合もあるし、共感覚のように、特定の人にだけ見える色というのもある。

 けっきょく、この問題をつきつめていくと、我々が当たり前に捉えているような「公的出来事」というのもその存立があやしくなってくる。この問題はおそらく、世界仮説にもつながってくる。

 さて、話が大きくなりすぎたのでもう一度元に戻し、どういう手段を使えば他者に私的出来事を伝えることができるのだろうか、について考えてみることにしたい。このことについては、『言語行動』(Skinner, 1957)により詳しい記述がある。その内容は、オドノヒュー・ファーガソン(2005)は以下のようにまとめられている【箇条書きは長谷川による改変】。
Skinner (1957) suggested five ways in which the verbal community teaches its members to tact private events:
  • One is by way of a common accompaniment (e.g., upon seeing a sharp object pierce the flesh, individuals are taught to say "That hurts!";p.131);
  • the second is to use some collateral response to private stimulation (e.g., upon seeing a person rubbing his or her head, the verbal community teaches him or her to tact "I have a headache";p.131);
  • a third way is when a speaker's behavior recedes in magnitude to covert form (e.g., saying something to oneself that was once said aloud; p.133);
  • a fourth and fifth way one learns to tact private stimulation is via metaphorical and metonymical extension(p.133).
    【O'Donohue & Ferguson (2001).The psychology of B.F. Skinner., 133頁】
言語共同体が構成員に私的出来事のタクトを教えるのに、5つのやり方があると、スキナー(1957)は指摘している。
  • 1つは、共通体験によってである。たとえば、ナイフが筋肉に突き刺さっているのを見て、「痛い」という表現を教える(p.131)。
  • 2つ目は、私的出来事の付帯的反応を通してである。たとえば、頭をさすっているのを見て、頭痛なのだとタクトすることを教える(p.131)。
  • 3つ目は、話し手の言語行動を聞こえないレベルにまで小さくすることを教える。たとえば、ことばを覚え始めた頃には、言語行動をすべて声に出しても、「うるさい」などと罰せられないが、やがて、「静かに!」と言われるようになる。読書の時にも黙読が強いられる。こうして必要な時にだけ、自分自身についてタクトするようになる(pl33)。
  • 4つ目と5つ目は、隠喩と換喩である。隠喩、換喩を通して私的出来事をタクトすることを学ぶ(p.133)。
    【佐久間監訳(2005),139頁。「3つ目」の箇所はかなり意訳されている。】
 ここでもまた、隠喩や換喩が重視されている点が興味深い。もっとも、スキナーの1950年代の論考では、「視点取得(視点取り、Perspective-taking)」という観点はまだ曖昧であった。幼児期、自分の私的出来事を他者に伝えるという行動が発達していくためには、単に語彙を増やすだけではダメで、人称を区別した表現を使い分けること、またそれが、生育環境の中で強化されていくことが必要であろう。

 次回に続く。