じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
一般教育棟中庭のコブシの花。この樹はもともと、噴水池・ヴィーナス像の近くに生えていたもので大規模環境整備工事の際に移植された。当初はだいぶ弱っていたが、今年はかなりの数の花をつけている。ちなみにヴィーナス像の最期の姿がこちらにあり。写真右は2011年4月6日撮影。 |
【思ったこと】 160329(火)行動分析学における自己概念と視点取得(12)自然科学における私的な出来事(3) 3月27日にも述べたように、「私的出来事」は、徹底的行動主義と方法論的行動主義の違いを鮮明にする最大の特徴であるとも言える。武藤(2006,2011)は、佐藤(1985)を引用しつつ、この点に関して、次のように述べている【※】。 [※]
徹底的行動主義では,意識や認知といわれる私的(private)な出来事も,行動(特に言語行動)と捉え,外部から観察可能な行動と同一の原理に従うという立場である。つまり,意識や認知を言語行動と捉えるということは,それらが社会的な言語共同体によって形成されると捉えることと同義である。一方,方法論的行動主義とされる立場では,意識や認知を行動とは捉えずに,直接観察することが不可能な対象と捉える。そのため,意識や認知を研究対象から外すという方法を選択したり,外部からの直接に観察可能な行動を通してそれらを推論したりするという方法を選択することとなる。残念ながら、心理学の世界では、こうした徹底的行動主義と方法論的行動主義の違いが十分に理解されておらず、トールマン、ハル、スキナーをひっくるめて「新行動主義」として区別せず、認知心理学系の入門書の孫引きのみに依拠したトンチンカンな批判があとをたたない傾向がある【たとえばこちら】。 もとの話題に戻るが、Skinner(1953)では、単に「徹底的行動主義は私的出来事を研究対象としています」という立場表明ではなく、具体的に、私的出来事にはどのようなものがあり、どのようにして分析が可能であるかについて詳しい論考がなされている。 「VARIETIES OF PRIVATE STIMULATION(261頁以降、翻訳書「私的な刺激状況の多様性」310頁以降)」では、まず、内部感覚的な刺激(Interoceptive stimuli)と自己感覚的な刺激(Proprioceptive stimuli)を区別する習慣が取り上げられている。前者は主として内臓など体の内部を起源とする刺激、後者は、事物の表面がベタベタしているかツルツルしているかといった、外部との接触に伴って発生する刺激が含まれている。但し、「The important point here, however, is not the locus of stimulation but the degree of accessibility to the community./重要な点は、刺激が作用する部位ではなく、反応がコミュニティに受け入れられている程度(accessibilty)である。」と強調されている。 このうち、内部感覚的な刺激の発生を他者に伝えることはなかなか難しい。スキナーが例に挙げている歯痛のほか、頭痛や腹痛なども他者と共有することはできない。「頭をコツンと叩かれた時の痛みに似ている」とか、「打ち寄せる波のように間欠的に痛む」というように、別の事象との類似性をもって伝えるという手段が一般的であろう。とはいえ、仮病を見抜くのは容易ではない。 いっぽう、自己感覚的な刺激のほうは、同じモノに触れてみるとか、同じモノを味わうというように、共通体験をすることである程度、刺激を「共有」することはできる。もっとも、これを拡張していくと、公的出来事と言われている出来事もけっきょくは「私的出来事+共通体験」であると言えないこともない。 次回に続く。 |