じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 3月17日の楽天版ほかで、岡大構内の芝地に繁殖している巨大輪タンポポの話題を取り上げたことがあった。このところの暖かさで、1株あたりの花の数がだいぶ増えているが、花の直径は一番花の6cmからやや小さめの4〜5cm前後となっている。
写真は、8輪の花をつけている株。青色円内は、私が近くに咲いていた普通の大きさの花を切り取って比較のために挿し込んだもの。

2016年04月07日(木)


【思ったこと】
160407(木)行動分析学における自己概念と視点取得(21)自己(2)

 昨日に続いて、『科学と人間行動(Skinner, 1953)』第18章「自己(The self)」を取り上げる。第18章では原書288頁から292頁まで5頁にわたって「THE ABSENCE OF SELF-KNOWLEDGE(自己知識の欠如)」が論じられている。

 ちなみに、ここでいうknowingとは、
The behavior which we call knowing is due to a particular kind of differential reinforcement. 【原書288頁】
われわれが知る(knowing) と呼んでいる行動は、特定の種類の分化強化なのである。【翻訳書342頁】
というように定義されている。この定義に基づけば、どういうことが分化強化されているか、あるいは分化強化されていないかを把握することにより、自己知識の中身、あるいは自己知識が無かった場合の状況を克明に知ることができるであろう。

 この節では、自分の過去の行為を思い出せない現象、自分が何をしているかに気づかない現象、これから先何をするつもりであるかを知らない現象、さらには、自分の行動をコントロールしている環境変数が分からない現象というように、過去・現在・未来それぞれにおける自己知識の欠如について、論じられていた。スキナーは、これらのことがうまく言語報告できないのは、それが観察できないかどうかではなく、それを弁別し言語化することが適切に強化されなかったためであると指摘している。
...We have no reason to expect discriminative behavior of this sort unless it has been generated by suitable reinforcement. Self-knowledge is a special repertoire. The crucial thing is not whether the behavior which a man fails to report is actually observable by him, but whether he has ever been given any reason to observe it.【原書289頁】
...この種の弁別的な行動が、適切な強化によって生み出されない限り、そのような行動の生起を期待することはできない。したがって、自己知識は特殊なレパートリーである。報告できなかった行動が、実際に彼によって観察可能か否かではなく、彼がそれを観察する理由をこれまでに与えられてきたかが、決定的に重要である。【翻訳書345頁】

 これ以外の場合として、観察に必要な自己刺激があまりにも弱すぎて弁別困難であった場合、より優位な反応が弁別的な反応を起こりにくくしている場合(戦闘場面など)、睡眠や薬物の影響下なども自己知識の欠如をもたらすと指摘されている。
 もう1つ、戦闘場面との対比で、自己記述(self-discripation)というレパートリーが作り上げられないうちの出来事は思い出せない事例として、幼児期の出来事は思い出せないという事例が挙げられていた【翻訳書346頁】。戦闘場面のほうは優勢の原理(the principle of prepotency)によって説明される。つまり、戦闘という強烈な反応が弁別的な反応より優越するため、自分の行動を観察することが困難となる。それに対して幼児期の出来事が思い出せないのは、幼児期には未だ、自己記述のレパートリーが確立できていないためであると推測されている。

 ここからは私の考えになるが、幼児期に何度も見た風景や自分を大切にしてくれた人の顔などは何らかの形で記憶に残っているはずである。但し、自己と他者に関する視点取得、言語的記述のレパートリーを習得できていないうちは、出来事としての記憶として再生することはおそらく困難と思われる。

 第18章の終わりのところでは、抑圧(Repression)やシンボル(Symbol)についての論考がある。これらはフロイトの考え方に対するスキナーの立場表明という側面もある。ウィキペディアにも記されているように、精神分析は、20世紀初頭から半ばにかけて、心理学、精神医学はもとより、人文・社会諸科学や文化・芸術に多大な影響を及ぼした。1953年に刊行された『科学と人間行動』においてもスキナーは当然、このことを念頭において執筆内容を吟味していったものと思われる。余談だが、『科学と人間行動』は本文447頁から構成されているが、本文中には「Freud」あるいは「Freudian」は合計40回、つまり11頁に約1回の割合で出現しており、当時の精神分析の影響力と、それに対するスキナーの配慮の大きさを窺い知ることができる。

 なお、紀要の原稿締め切りが4月8日であることをふまえ、この連載はいったん休止し、紀要の続編の執筆締め切り(10月1日頃)に合わせて不定期で再開する予定。