じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 5月13日は、文学部前に献血会場が設けられ、多くの学生が協力していた。その会場にあった「お願い」という掲示で意外なことに気づいた。「以下の国に滞在したことのある方はご遠慮ください」となっている国のうち、私が訪れたことのある国(空港を含む)は12カ国、うち宿泊を伴った滞在(左下の赤い円内)は9カ国に及んでいたのである。もっとも滞在日数はごくわずかなので、これらの事実をもって献血不可とされることはないが、これらの国にそういった危険があることはあまり意識してこなかった。念のためこちらの情報を閲覧したところ、これらの国はBSE感染の危険がゼロではなかったようだ。もっとも、クリティカルシンキングのネタにもあるように、これらの国の禁煙レストランでステーキを食べてBSEに感染する危険より、日本国内の喫煙が禁止されていないレストランでタバコの煙を浴びながらトンカツを食べてタバコ起因の疾病リスクを高めることのほうが遙かに危険であることは間違いない。

2016年05月13日(金)


【思ったこと】
160513(金)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(24)「考える」と人間の言語(10)認知的な解決はどこに問題があるのか?(2)

 認知的アプローチの問題点として、昨日述べたほか、第2章45頁以下(翻訳書66頁以下)では、以下のような点が挙げられている。
This means that to a behavior analyst, cognitive theories, with their explanations based on internal structures or mental representations, are a dead-end street. ...【略】...If mentally "representing" is an important part of a sequence of human behavior, the behavior analytic question would be How are we to understand this presumed human activity of "representing"? This gives us even more human behavior to explain, which is then done by performing analyses of events in the action's context. Referring to mental representations does not, as seen from the behavior analytic perspective, present us with any useful answersto questions concerning the causes of human behavior. This is, at best, only a description of more human behavior that then needs to be explained. At worst, this model places the causes of behavior in an assumed internal world that is not accessible to scientific psychological analysis.
「行動分析家から見ると,どのような認知理論も『袋小路』にはまる。というのも,内的構造あるいは心的表象に基づいた説明をするからだ。...【略】...もし,心的に「表象する」ことが人間行動の一連の動作の中で重要な部分なのだとしたら,「この想定された『表象する』という人間の活動を,私たちはどのように理解すべきなのだろうか?」という問いが行動分析学から提出されることになるだろう。「表象する」ということを想定すると,さらに説明しなければならない行動が増えてしまい,それは,そのアクションの文脈に生じる出来事を分析することによって行われるのである。行動分析学の観点からすると,心的表象を持ち出すことは「人間行動の原因は何か」という間いに対して何か役に立つ答えを提供してくれるものではない。それは,良くても,多くの人間行動についてより詳細な描写でしかない。そして,その新たな描写に対しても説明を加えなければならなくなる。最悪の場合, このモデルによって,行動の原因が想定された内的世界の中に位置づけられることになる。そうなってしまうと,科学的な心理学的分析をすることができないようになってしまう。
 こうした問題点は、まことに残念ながら、現在の心理学研究の流れの中にも見られるように思う。構成概念に基づくモデルを提唱することは、いっけん、複雑な現象を簡潔に記述し、何らかの予測を可能にしているように見えるが、そこで言われるのは「○○という要因が強ければ××という傾向が大きくなる」といった内部の仮設的変数に基づくものであって、直接的に影響を及ぼすことはできない。けっきょく、実験を繰り返したり、大規模な調査データを分析しても、個人レベルの行動に影響を与えられるような方策に還元できる範囲はきわめて限られている。但し、その業界の中では研究業績として評価されるので、研究者の再生産が保障されている限りにおいては、そういう研究を続けても食いっぱぐれることはないのである。

 もっとも本書では、認知主義に対してはそれを排撃するというような態度ではなく、むしろ
My purpose has simply been to point out, from a behavior analytic perspective, what unites these other perspectives, and what makes them unacceptable as alternatives.
ここでの目的は「行動分析学の観点からは,認知理論的な観点のどの部分が統合できて,どの部分がそうではないのか」を指摘してきただけのことである。
としており、むしろ、接点をさぐる意義も述べられている。

 こちらの論文の最後のところで引用したように、Pepper(1942)の「世界仮説」【Hayes, Hayes & Reese, 1988; 武藤, 2001; 2011を合わせて参照】によれば
  1. ある世界仮説はそのルート・メタファーによって規定されている。
  2. 各世界観は自律している。
  3. 各世界観同士の折衷主義は混乱を引き起こす。
  4. ルート・メタファーとの関係を失っている概念は意味を持ち得ない。

 とされており、ある世界仮説を用いて他の世界仮説を分析・批判することは、上述の前提条件から逸脱するだけでなく、本質的に無益であるという主張されている。この趣旨から言えば、認知主義の欠点を暴くことで徹底的行動主義が強められることはない。認知主義からの誤解や曲解に対してはきめ細かく反論する必要があるが、けっきょくは、プラグマティズムに基づく真理基準によって、どういう達成がなされるかを示すことが、実質的な反論になりうると言えよう。

次回に続く。