じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 12月19日夕刻、建設中?のビルの屋上のクレーンが夕日に照らされて輝いているのが見えた。このことで思い出されるのは、京山頂上にあった観覧車である【右に再掲】。こちらに関連記事あり。



2017年12月19日(火)


【思ったこと】
171219(火)自分とは何か(2)

 昨日の続き。

 「自分とは何か」ということと、「これが自分だ」という感覚はおそらく別物であろう。もし、自分の特徴(長所、短所、行動傾向など)を詳しく調べることで「自分とは何か?」が解明できるというのであれば、これまでの心理学の研究成果だけでも十分に目的を達成できる。また、もう少し技術が向上すれば、自分そっくりに振る舞うロボットを作り出すことができる。しかし、自分のコピーが誕生したところで、分身とは言えない。本人が死んで分身だけ生き残ったとしても、生き延びたという感覚は持てないであろう。

 そこで、発想を変えて、どういう状態の時に、自分が消えてしまうように感じるのかを考えてみる。おそらく、
  • 寝ている時。但し、夢を見ている時はそれなりの「自分」が関与していたような記憶が残る。というか、自分が関与しない夢をみることはまずない。
  • お酒を飲み過ぎた時、事故で意識を失った時などは「自分」を感じることはできない。回復した後には、「あの時のことは全く思い出せない」と感じるので、その期間は「自分」が無かったことになる。

 このほか、世間には、自分が歴史上の英雄である(タイムスリップで現在にやってきた、生まれ変わりであると信じている、自分に乗り移っている)と思い込んでいる人もいる。また、認知症高齢者の中には、何十年も前の自分に入れ替わっているように振る舞う人もいる。他者から見ればそれらは真実とは言えないが、本人がそう思い込んでいてそのように振る舞っているなら、それでよいのかもしれない(他者に迷惑を及ぼしたり、現実生活に適応できなかったりした場合は別だが。)

 カルト宗教によるマインドコントロールなどもその1つであるが、制限された状況で繰り返し繰り返し偏った情報を流し込まれれば、全く別の「自分」に変身させられてしまうことがある。これを変形すれば、「自分」がタイプスリップで過去からやってきた歴史上の人物であると信じ込めるようになるかもしれない。但しこれはあくまで、当人の中での変化である。Aという自分がBという他人に変身することはできるだろうが、BにAという自分になってもらうことはできない。(上にも述べたが、自分のコピーを作っても、自分を移し変えることはできない。)

 ということで、あまり役にたちそうもない戯言ばかり述べてきたが、けっきょく、「自分」という感覚は閉じた固有性であって、それ自体は大した存在ではないのかもしれない。但し、日々の活動を調整し、ある程度一貫し、一定の方向に向かってまとまりを持たせるという機能は大切である。その機能を「自分」と呼ぶのであれば、かけがえのない自分というのはやはり大切にする必要がある。