じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 平日の朝5時台に視ている「早起き日経+FT」の番組の前後に、「野村證券のCM」の1つ、「赤レンガ」というのがある。舞台がモニュメントバレーであることは分かっていたが、最近、私自身が撮影した写真の中に、ほぼ同じ岩の形を撮ったものがあることに気づいた【写真下参照】。もっとも、この動画は、実際にはスタジオで合成して作られたものらしい。リンク先の「メイキング」に制作現場の記録が紹介されている。

 それはそれとして、レンガを積むこととモニュメントバレーの岩がどういう関係があるのか、私にはイマイチ理解できない。

2018年1月16日(火)


【思ったこと】
180116(火)自分とは何か(5)視点取り(1)

 昨日の続き。

 私的事象と公的事象を区別できるようになったとしても、それだけでは「自己」の感覚は生まれてこない。「自分の国」と「外国」を区別することと、2つの外国、例えばアメリカと中国を区別することと大して変わらない。「自己」を考える上では、これに加えて、視点取り(視点取得、perspective taking)の仕組みについて理解することが不可欠であるように思う。

 視点は、「いつ、どこで、誰が」という3つによって構成される。但し、留意すべきことは、直接できる視点は、「いま、ここ、私が」のみである。関係フレーム理論によれば、それ以外の視点は、「恣意的に適用可能な関係反応」ということになる。トールネケ(2013、144-145頁)はこの点について以下のように述べている。
個人は,常に,「私が―今―ここで」の視点から答える。この視点が,個人が直接的な仕方で経験する唯一のものである。もしも,あなたが,読者としてのあなた自身のたった今の経験に注意しでみるなら,あなたはそれを,「私が一今一ここで」の視点からするのである。あなたは,何かを 「私がー今ーここで」以外の視点から経験した一見た,聞いた,または行った―ことが,いまだかつてあっただろうか? まずないだろう。それでもなお,私たちは,ほかの視点というものがあるように行為して反応する。私たちは,自分のもの以外の視点を,決して直接的に経験することはできない。つまり,私たちが,個人として,自分のもの以外の視点に関係づけて行為するその仕方は,学習されたものなのである。
さらに、146頁では、次のようにも述べている。
...「今一ここで」の視点の中にこそ,私たちの自己の経験,つまり「私」であること,の起源がある。なぜなら,これが私たちにとっていつも存在する視点であり,私たちの身に起こることが経験される立場の視点であり,また,私たちがそこから「私」と呼び習わしてその視点自体について譜ることを学ぶ視点だからである。そして,この視点は継続的なものであるから,そこから,私たちの継続性の経験が生まれる―ある種の感覚で,同じ人間であり続けているという経験―すなわち,「自分自身」の感覚である。
 以上と同じような見解は、ACTの入門書にも記されている。バッハ・モラン(2009、224頁)には
私たちは,自分の言語行動や非言語行動の中で,自らの視点を明示するのである。誰ひとりとして他人の視点を体験することはできない。私たちは他人の言語的。非言語的行動を私自身の視点と関係づけることを通じて,他人の視点と接触することができるだけなのである。
 もっとも、以上のような記述では、「自分の視点」、「自らの視点」、「自分のもの」、「私が」といった概念は、それ以上は説明されていない。「自己とは自己の視点のことだ」といったトートロジーに陥る恐れもある。にもかかわらず読者の多くが疑問をいだかないのは、「自己はちゃんと存在している」という暗黙の前提があるからだろう。ま、ある意味では数学的帰納法のようなもので、出発点として「自分の視点」を前提としておけば、「恣意的に適用可能な関係反応」を通じて他者の視点を獲得する仕組みが理解できるというようなものだろう。

 次回に続く。