じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 2018年6月のウォーキング総括。2018年6月は、総歩数24万6520歩、1日あたり平均8217歩となり、前月5月の7484歩を上回ったものの、在職中の基準値1万2000歩には遠く及ばなかった。5月31日の日記に「せめて1日あたり9000歩を維持できるように習慣化を再構築したいと思う」と記したところであるが、あと800〜900歩ほど増やすため、生活スタイルに若干の改善が必要と思われる。

2018年6月30日(土)


【連載】

大モンゴル(6)フビライ(1)

 昨日の続き。

 シリーズ第四集では、フビライが取り上げられていた。なお、ウィキペディアでは「クビライ」と表記されているが、ここではNHKの番組で使われていた「フビライ」としておく。

 まず、第二代オゴデイからフビライに至る経緯についてウィキペディアの当該項目を要約引用しておく。

 オゴデイが死んだのは1241年。オゴデイは後継者としてシレムンを指名していたが、オゴデイの皇后ドレゲネはグユクを擁立し皇帝の選出が遅れた。1246年にようやくグユクが即位したが、即位後わずか2年で死亡した。死因については諸説あり暗殺の可能性も示唆されているという。なお、病身であるグユクは政務を執ることができず、チンカイともう一人の大臣であるカダクに内政の処理を委任していたという。チンカイはチンギス・ハーンに使えていたキリスト教徒として知られており、この時点ではモンゴル帝国の政務はキリスト教徒に任されていたと言えないこともないようだ。しかしグユクが急死し、トルイの長子モンケが第四代皇帝に即位した後、チンカイはグユクの皇后オグルガイミシュと共に処刑されてしまった。

 ということで、チンギス・ハーンの末子であったトルイ自身は第二代皇帝の座をオゴデイに委ねたが、自分の長男のモンケが第四代となり、さらには次男が第五代のフビライであったことから、結果的には子孫を繁栄に導いたとも言える。

 とはいえ、フビライは平和裏に後継者となったわけではない。番組冒頭でも語られていたように、モンケの急死時にはトルイの末子であるアリク・ブケが後継者の最有力候補であったという。フビライは1259年にモンケが急死した後、カラコルムから遠く離れた上都で一部の王族だけを集めてクリルタイを勝手に開催し、大ハーンを称した。カラコルムにいたアリク・ブケも大ハーンを称したが、1264年にフビライに降伏した。フビライの弟ということで一命は助けられたが、2年後に病死したという。

 しかし、アリク・ブケも歴史上の敗者というわけではない。フビライには降伏したが、その子孫にあたるイェスデルが1388年にフビライの子孫トグス・テムルを殺害してモンゴル帝国第18代皇帝に即位、100年越しの仇討ちを果たしたという。もっとも、1368年には明が建国され、元は大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退。これにより、漢民族の側からは元は北元と呼ばれるようになり、さらにイェスデルの即位によってフビライ家のハーンが断たれたことから、韃靼(だったん、タタール)と呼ぶようになったという。ということで、イェスデルはもはや中国全土を支配する皇帝にはなれなかった。

 次回に続く。