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2018年12月19日の日記で、 文学部西側の道ばたに咲いていたキルタンサス(和名「笛吹水仙」)の花が何者かによって根こそぎ持ち去れ、その後、元の場所に植え戻されていたという話題を取り上げたことがあったが、その後、当該の株はしっかりと根付き、新しい花芽が出るようになった。写真は、すぐ近くで勝手に咲いている日本水仙とのコラボ。 |
【連載】 関係反応と関係フレームをどう説明するか(20)「関係フレーム」とは何か?(8) いろいろな関係フレーム(3)Coordination(2) 昨日に続いて、「等位(Coordination)」フレームの話題。等位フレームに関連する言語訓練は、いっけん単純のように見えるが、細かく見るといくつか疑問が出てくる。 まず、実物のモノを見せて、その名前を口で言うという言語訓練場面だが、パープルブックでは、「called」とか「name of」、日本語で言えば「と呼ばれている」とか「(この)名前は」が関係的文脈(Crel)になっているという話であったが、これらの言葉が関係的文脈となるためには、事前に「呼ばれている」とか「名前」という言葉の意味(使い方)を知っておく必要がある。実際には、こうした言葉は、モノと音声との対応づけについて多種多様な範例を提示される中で並行的に学習されていくものである。そのしくみについてもう少し詳しい説明が求められるように思う。 次に、実物と音声の対応づけ訓練が本当に等位フレームになっているのかという疑問がある。これについては、大きく分けて、事物の固有名詞についての訓練と、一般名詞についての訓練がある。例えば、一匹の犬を前にした時に、
このうちの1.では目の前の犬は、犬という集合の見本として機能している。2.は暗に包含関係を含んでいる。いずれも、目の前の犬だけを限定する言葉ではないという意味で一対一の対応関係にはなっていない。 いっぽう、3.の「これは、ポチ」というのは、そこにいる1匹の犬だけがポチと言う名前で呼ばれていて、他の犬とは異なる唯一無二の存在であるという意味になる。もちろんポチという名前をつけられた犬は他にもたくさんいるだろうが、当事者の生活空間の中では、あくまで固有名詞として他者と区別し同定する機能を有していると言える。 ということで、幼児の言語訓練はまず等位フレームからスタートするように見えるが、そのプロセスはけっこう複合的であって、一本道の階段を上るようなプロセスではなさそうである。 あと、昨年11月19日の日記でも述べたように、日本語の「AはBだ」は「Ais B」ではないという点にも留意する必要がある。ネイティブの日本人は「○○は」の「は」をほぼ正確に使うことができるが、外国人は、いくら日本語に堪能と言われても「は」を使いこなすのはそう簡単にはできない。日本人が幼少期にどういう対応づけ訓練の中で「は」を習得していくのかということも詳しく説明する必要がありそう。 不定期ながら次回に続く。 |